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2007年7月18日 (水)

錬獄の考察

錬獄はカトリックの教えであり、プロテスタントにはない。煉獄という表記もあるが、錬獄を使う。

マタイ福音書25章に「天国のたとえ」がある。

ある人が旅に出る時、その僕に自分の財産を分ける。能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントと分けて、旅に出た。5タラント、2タラントを預けられた人は、それで商売をして、もうけた。しかし、1タラントを渡された僕は、その金を隠しておいた。

僕の主人が帰ってきて、計算を始めた。もうけた人はほめられて、もうけなかった1タラントのものは叱られた。

そして、「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」(29-30節)と、主人に言われる。

この「天国のたとえ」を、どう読んだらいいのだろうか。もうけた僕たちは天国へ、もうけなかった僕は地獄へ、と、そう読むべきなのだろうか。

別の読み方もあるかも知れない。それは「錬獄」は救いの範疇である、ということを考えてのことである。僕は全部、救われるのである。1タラントのものは天国に行くのではなくて、錬獄に行く。錬獄は天国への道である、という理解である。

なぜか。それは、ある人の財産というものが聖霊であり、聖霊を分けられるということは、救われる、ということを意味するからである。救いというものは、主人が帰ってきて、計算を始め、そこで決まるのではなくて、旅に出た時、財産を分けた、というところで決まるからである。

主人のお叱りを受けるということは、天国に直行するということではなくて、錬獄に行くことを意味している。しかし、やがて、天国に行く。

もうけた僕たちは、地上の生において「キリスト者の完全」を達成したという意味であろう。

もうけなかった僕は「外の暗い所」に追い出され、そこで「泣き叫んだり、歯がみ」をするという。これは、一般的には、地獄のことであろう。そして、「持っているものまでも取り上げられる」のであるから、主人の財産、聖霊も取り上げられるということなのかも知れない。そうすると、そこは錬獄ではなくて、地獄なのだということになる。だから、1タラントのものは地獄行きなのだということも一理ある。ここは解釈の分かれることろかも知れない。

しかし、私は、もうけなかった僕にも、何かの希望を見い出したい。それとも、希望はないのだろうか。

そなことを考えていると、ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を思い出す。プロテスタンティズムの基本的読み方は、もうけなかった僕も救われるという理解である。しかし、ピューリタンたちは、もうけなかった僕は地獄に行く、と読んで、怖れに身震いしたのだろう。その気持ちはよく分かるのである。ただ、信仰義認の教えというものは、そうではなかったのではないか、という疑問を私は感じてきた。この「天国のたとえ」を、どう読むかで、その後の生き方も違ってくる。

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