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2007年7月28日 (土)

人間の創造

『思想の宗教的前提--キリスト教哲学論集--』(春名純人著、聖恵授産所出版部)という本がある。

最初の部分に「理性と信仰」が取り上げられている。その中で、「退けるべき三つの典型的立場」の最初に、「スコラ的総合の立場[自然と恩恵の二元論]」が紹介されている。

そこに、こんな個所がある。

「もともと人間にあったこの混乱と不調和を抑える目的で創造の後で付加的に加えられた超自然的付加的賜物(donum superadditum)をアダムは罪を犯すことによって喪失したから、この原義の喪失はアダム以後の人間に再び混乱とは調和をもたらしている。この混乱と不調和を修正・補修するものがキリストの恩恵である。創造の時の人間に混乱と不調和があったという考えは、創造がはなはだ良かったとする聖書の言明に対する矛盾があり、また、堕罪後も人間理性には原理的には罪の結果が及んでいないという考えは、罪の影響が人間の全本性に及ぶという聖書の言明に対する矛盾がある。このように、この考えにおいては、罪による原義の喪失を超自然的付加的恩恵のみの喪失に限定し、理性に対する罪の影響は原理的には承認されていないと言える」(2頁)

さて、超自然的付加的賜物は創造の後で加えられたのであろうか。超自然的付加的賜物が加えられた段階で、人間の創造が語られているのではないだろうか。この超自然的付加的賜物の喪失を「原義の喪失」というのは、そうだと思う。

「創造の時の人間に混乱と不調和があったという考え」と言われるが、それは創造が、原義の付加の以前と考えているからである。しかし、原義の付加の後で初めて人間の創造を考えるのであれば、聖書の言明に対する矛盾はない。

また、「堕罪後も人間理性には原理的には罪の結果が及んでいないという考え」と言われるが、堕罪後も人はあくまで人である、という意味にとれば問題はないと思う。しかし、堕罪は原義の喪失であり、原義の回復が人間の力では不可能という主張とあわせ考えれば、人は理性能力によって救いを得ることができるとは言っていないのではないだろうか。

著者は、この教えは全的堕落の教理が否定されているというが、全的堕落の教えは、原義の喪失を指していると考えれば、スコラ的総合にも全的堕落は教えられている、と思う。

「理性に対する罪の影響は原理的には承認されていない」と言われるが、これは、罪を犯したといっても、人間は理性的動物をやめて、他の定義による存在になるのではない、という意味であれば、現実に根ざしている言明と言えるのではないであろうか。

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コメント

人間の本質
人間の本質は「神の像」である。ということは、その神の像は、人間の罪によっても失われないものである。本質とは、そういうものだからである。世の終わりまで、これは変わることはない。

しかし、「神の像」のみという、人間のあり方は地獄行きなのだろう。天国には、それはない。天国における人間の定義は、「神の似姿」である。

A「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2・7)

B「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこにおかれた」(創世記2・8)

Aは人の創造である。人を神の像として創造したという記事である。そして、Bは、その人に神の似姿を付与したといしう記事である。これは、私の解釈である。しかし、そう思っている。

そして、エデンの園のおいては、人間の本質は神の似姿にはならなかった。しかし、来るべき「エデンの園
」、天国においては、神の似姿が人間の本質になるのだと思う。

歴史とは、人間の本質が「神の像」から「神の似姿」へと移行する過程である。この過程の終了が歴史の終わりである。地獄には「神の像」があるけれども、「神の似姿」はない、とも言えるだろう。

投稿: | 2007年8月21日 (火) 16時53分

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