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2007年7月 6日 (金)

人格

ベルジャーエフの著書の中に、『奴隷と自由』(“Slavery and Freedom ”Nicolas Berdyaev)というタイトルのものがあった。これは、名著であると思った。しかし、白水社の著作集には含まれていない。

今では入手は困難なので、時々、紹介していきたい。その中に、こんな個所がある。

「人間のほとんど大多数は、人格からはでき上っていない。この大多数者のうちにおいては、人格は未だ可能的か、あるいはすでに分裂してしまっている」

彼は人格主義を提唱している。人格主義は、かつてキリスト教の教育者たちも語っていたが、今では、余り聞かれなくなった。

人格主義、人間はみな人格である。だから、それは人間尊重主義のことである。そう解釈すると、ベルジャーエフの場合は、少し違うようである。

彼は、人格の価値を高く見ているのであるが、その人格は、人間であれば皆、持っているものとは見ていない。だから、彼の定義で人格の可能的を位置にいる人たちは、彼の立論に違和感を感じるのではないだろうか。

しかし、キリスト者には、彼の意味するところが分かるのである。彼が人格というのは、神の似姿を内に持つ人たちのことである。一般的には神の像の持ち主たちを人間という。だから、人間尊重は、どんな人でも神との関係から言われなければならないが、神の像の持ち主たちは、その上に神の似姿を必要としている。ベルジャーエフの指摘からは、そんな意味を読むことができる。

この個所だけでも、ベルジャーエフの人格主義が、聖化段階の人間の価値を語っていることが分かる。

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