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2007年7月 7日 (土)

人格

「人格が世界に入り来る時--独一にして繰返しのできぬ人格性が世界に入り来る時--世界過程は闖入を蒙り、たとい外面的にはそうした徴候が見えないという事実にも拘わらず、その進路を変更せざるを得ない。人格は世界生命の不断の複雑な過程のうちに位置を占めず、世界の進化における-契機でも-要素でもありえない。人格の存在は断絶を予想する。それはいかなる連続によっても説明し得ない。それはいかなる不断の連続によっても説明し得ないものである」(『奴隷と自由』ベルジャエフ著)

私は、ここでイエスの誕生のことを連想する。その遺産でもある教会は進化の産物ではなく、進化とは別の原因を持っている。著者は、人格という言葉を人間の超自然的方向において基礎づけている。

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コメント

イエスの誕生は処女降誕と言われる。その非神話化の意味が、この個所に関係があるのだと思う。処女降誕は信仰告白である。それは、自然的誕生過程を否定する奇跡を信じる信仰を意味するのだろうか。米国のトーレーら根本主義者の信仰は、そうでなければならぬ、という主張なのだろうか。たとえ、そうでとしても、その意味をたずねることを無視する時、単に「理性では分からない」という印象に留まるのではないだろうか。そこに、意味をたずねる時、ベルジャーエフの人格の記述との関連で理解も出来るし、またイエスの原罪からの自由という別の意味も現れてくるのではないだろうか。それらは、「理性では分からない」という断絶と共に、ある理解も承認するのであるから、その理性的側面に即して考えれば、矛盾的両立とでもいえるかも知れない。そういう、非神話化的解釈は認められないのだろうか。

投稿: | 2007年7月 7日 (土) 11時37分

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