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2007年7月23日 (月)

プロティノス

プロティノスについて余り関心を持ったことがなかった。しかし、アウグスチヌスへの影響を考えた時、少しは関心をもってもいいように思う。『プロティノス』(鹿野治助著)があり、そこには、こんな文章があった。

「プロティノスの哲学は宗教哲学である」

「一部分ずつ順に見ると云った様な運動は、時間に於いてのみ起り得るのである。叡智界では現在に於いて一切が現前しているのであるから、一切を一挙にして見る叡智的直観があるのみで、「ノエシス」とか「ノエイン」とかいうのはこの様な活動を言うのである」

「ヌースの働きであるノエシスとは、思量の如き継続に依って行われる運動ではなくして、思惟と云うならば現在の瞬間に遂行完成する思惟なのである」

「ノエシスは叡智的直観である」

宗教哲学というものは、弁証法神学の中では、余り重視されていないと思うが、私としてはいくらか復権を主張したい。啓示抜きの哲学という図式に対して、いや、啓示を含めた哲学もあるのではないか、という問題提起である。判断の最終的法廷として理性を置くのが哲学、啓示を置くのがキリスト教として、理性と啓示を分離するのは、一面、正しいが、啓示の中で働く理性もある、それが宗教哲学である、そういう立場もあるのではないだろうか。

ヌースは聖霊、ノエシスは霊感、叡智界とは霊感の働く場、そう翻訳してみれば、キリスト者の内的経験に近づくであろう。そのように翻訳していくと、割合、うまく説明されていることに気づく。

聖書の言葉で表現されていない時、それは別の事態を表していると思わず、あえて、自分の土俵の中に引っ張ってくることも理解の大切な準備作業と思う。

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