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2007年7月 1日 (日)

キリスト者の完全

キリスト者の完全とは一つの体験ではなく、一つの自覚ではないだろうか。聖霊の満たし、聖霊のえい満といった体験での招きがキリスト者の完全に含まれるといってもいいかもしれないが、それだけではないように思う。
キリスト者の完全とは聖化の本質の自覚を指すのではないだろうか。それは自己の完全ではなく、内住のキリストの完全であり、その自覚のことである。

完全聖化という言葉があるように思う。この地上の生において、聖化が完成し、逆転しないという意味であるならば、それはウェスレーの主張ではないであろう。なぜなら、自由意志を認める限り、地上では堕落の可能性がなくならないであろうからである。だから、完全聖化を意味するキリスト者の完全は、キリスト者の完全の誤解なのだろうと思う。

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コメント

「自己の完全」ではないという意味は、ウェスレーは、次のように言うからである。

「われわれが真実であると信じている事柄を言ったところが、事実のところ、それが偽りであることが証明された場合のような、故意でない失敗、あるいは、おそらく隣人に善をなそうともくろんだ時なのに、知らずに、あるいは、計画したのではないのに、われわれがその隣人を傷つけるような場合である。これらは神の聖なる・十分な・完全なみこころからはそれているけれども、それでも本当の意味で罪ではないし、「キリスト・イエスにある者」の良心に少しも罪の責任をもちきたらせもしない。これらの弱点は、神と彼らとの間を分かたない。また、神の顔の光をさえぎらない」(『説教』ジョン・ウェスレー著)

「そして、私がまちがっていたということも非常にありそうなことである」『説教』ジョン・ウェスレー著作集)

投稿: | 2007年7月 2日 (月) 23時37分

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