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2007年7月 1日 (日)

キリスト者の完全

完全は 完全者との 交わりの
 確認それに 信頼のこと

完全を 餞別に言う 自灯明
 釈迦の気持ちに なぞらえながら

自灯明というのは、正しくは、自灯明法灯明というのでしょう。

辞書によれば、「よく整えられた自らを拠りどころとし、正しい教えを拠りどころとすること」で、涅槃経によると、釈迦入滅時の最後の教えとのことです。

この自灯明法灯明に託そうとした釈迦の餞別の気持ちと、これから伝道に赴こうとしている伝道者に対して神学教師の贈る「キリスト者の完全」の言葉が、どこかで響きあっているような気がしています。

もちろん、神学教師が「キリスト者の完全」を若き伝道者の卵への餞別として選ぶかどうかは知りませんけれど。

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コメント

「キリスト者の完全」に関しては、ウェスレー研究の大家であられる野呂芳男氏のホームページに、このテーマで行った礼拝説教(2005年10月23日、本多記念教会)の概要が紹介されています。

詳しいことは、そちらをご覧ください。
http://www.geocities.jp/yoshionoro/2006-05-30christianperfection.html

そこで説明されている「キリスト者の完全」の考え方は、私のそれとは違いますが、歴史的には野呂氏の方が正しいと思います。私の理解は、あくまで私の発想による私の理解です。

さて、そこでは、ウェスレーは完全を体験していたのかという問題が扱われています。

そこでは完全をどう理解するかかが問題なのですが、私の理解では、ウェスレーは完全を体験していたということになります。

でなければ、他の人々に語ることはできないと思います。しかし、語る時に誤解が生まれるかも知れないということで、控えていたということはあるかも知れません。

私の完全理解は、あるいは甘いかも知れません。しかし、聖化のゴールとしての栄化における「完全」を地上で実現するということで、完全を理解するのであれば、それは間違いと思います。もちろん、それを目指すべきですが、再臨がまだである以上、聖化は、完成されていないのですから。それでも、栄化に向かう聖化の路線の上を進んでいるということは理解できると思います。その中に、「キリスト者の完全」を考えています。それは、野呂氏の説明に出てくる「キリストの霊」ではなく、内住の聖霊の完全性との関係における認識と思っています。

投稿: | 2007年7月 1日 (日) 14時08分

「完全者」という言葉をオリゲネスは使っていたようだ。

「オリゲネスによれば、ペテロの後継者はローマの監督でもなく、況んや他の監督でもなく聖職者でもなく、ただ「完全者」がそれなのである」(『オリゲネス研究』有賀鉄太郎著)

「完全者」がどんな意味か、知らないけれど。

投稿: | 2007年7月 2日 (月) 08時30分

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