« 「自己への愛」 | トップページ | 神秘体験 »

2007年7月13日 (金)

バチカン声明

最近のバチカン声明に関して、プロテスタントのA氏とカトリックのB氏の対話を聞いたので、紹介します。

A「バチカンが7月10日、声明を発表して、「ローマ・カトリック教会は唯一の正統な教会である」と言い、プロテスタント教会は「カトリックの教義によれば、その語の本来の意味において『教会』ではない」と言っている。エキュメニズム、教会一致の時代に、何と時代遅れの声明かと、少しがっかりしたよ」

B「そうかい。でも、バチカンは、以前から、そういうことを言っていたと思うよ。別に目新しい声明ではないと思うけど」

A「信仰義認の共同声明があって、バチカンもようやく、プロテスタントの立場を理解して、歩み寄り始めた、これでエキュメニズムの障害も大きなところでなくなった、よかった、そう思っていたのたけれど、何か、ぶち壊しのような気がするよ」

B「エキュメニズムの考え方の前提が双方で違っていたのかも知れないね。プロテスタントでは、諸教会の協力の前進と考えていたのかも知れないけれど、カトリックでは、そうではない。「見える教会の一致」が目標で、これは最初から変わらなかったと思うよ。だから、当たり前に、普通に考えたら、カトリック中心のキリスト教界の再編が、カトリック側のエキュメニズムの真相なのさ。それが最初から分かっているから、プロテスタントの保守的な信仰の人たちは、エキュメニズムに反対していたのさ。なぜなら、この運動に参加していたら、自分たちのアイデンティティがなくなってしまうからね。プロテスタントの自己矛盾になるからさ」

A「プロテスタントでもWCC(世界教会協議会)や、その加盟教会など、いわゆる主流派、保守的信徒に言わせればリベラル派だけどね、その人たちはエキュメニズムには一貫して賛成してきたと思うけれど」

B「そうだね。もともと、その人たちが言い始めたことだからね」

A「今回の声明では、この協力関係が何か歪められて、カトリックに吸収されるような力を感じるね。教会協力の観点からは余り好ましいことではないと思うけれど」

B「確かに。エキュメニズムの目標が「教会協力」なのか、「見える教会の一致」なのか、そこで違いがあるのだろうね。プロテスタントの目標は「教会協力」で、カトリックの場合には「見える教会の一致」なんだろう」

A「そうか。プロテスタントでエキュメニズムをやるということは、自分たちのアイデンティティの危機にぶつかるということかも知れないね。保守派の人たちの危惧が分かるような気がするなあ。カトリックに改宗しなければならなくなるかも知れないね」

B「個人としては有りうると思うけれど、教会としては無理でしょうね。時々、ニューマンの「後続者」たちが現れるけど、今では、余り珍しくもないかも知れない。一般信徒のレベルでは、普通になっているかも知れないね」

A「エキュメニズムの危険さが分かり始めたかも知れない。プロテスタントのアイデンティティを保つためには、保守派に転向して、エキュメニズム反対を表明するか、あるいは、このまま行って、カトリックのイニシアティブに従うか、われわれに突きつけられているような気がする。難しいところだね」

B「しかし、「見える教会」は、あくまで「見える教会」で、それ以上ではないよ。「見える教会」は、「見えない教会」の象徴、暗号と捉えてもいいのじゃないかな。その時、やはりカトリック教会があって、そんな声明を出すという意味もあると考えられるのではないかと思う。別にプロテスタント教会に救いがないと言っているのではないのだから。そこを勘違いしない方がいい。今回の声明を、そういうふうに、そういうニュアンスで考えたら、それは間違いと思うけど」

A「そうか。それで安心した。確かに、言われてみれば、そうだね。われわれは信仰によって直接、「見えない教会」に直行するけれど、われわれの論理では、「見えない教会」が一つであることを現実世界では、どうしても表現できないからね。まあ、エキュメニズムの進展の中で、どういう成り行きになるかは分からないけれど、信仰義認で一致できたのだから、プロテスタントとしてはカトリックに反対する理由はなくなったわけだ。かつては教皇を「反キリスト」と言ってきたけれど、そんな時代は終わったという感じだね」

B「うん、そうだね。時代は動いているね。プロテスタントも、自分たちの原点である信条を守っていくことは大切と思うけれど、それを現代から解釈していくことも必要ではないかな。自分たちを縛っているものを、もう一度、検証してみることだね。しかし、あるいは、気分としては、日本ではそこまで行っていないかも知れない。でも、ITに加速されて、時代はどんどん先に進んでいるような気がするけれど」

|

« 「自己への愛」 | トップページ | 神秘体験 »

コメント

A「それにしても、プロテスタント教会は教会とは言えない、というのは少し刺激的だなあ」
B「要するに、プロテスタント教会は、教会というよりも教派としての理解なのかもしれない。宗教改革後、多くの教会が出来た。それらは教会というけれど、一方、教派という理解もある。その枠の中で、カトリック教会も教派だという考え方も生まれてきた。しかし、カトリック教会には、そういう理解に抵抗があったのだと思う。自分たちは教派ではない、と」
A「プロテスタント教会が、自分たちの枠組みの中で、教会理解を行って、カトリック教会も、それらの一つの教派と考えてきたということなんですね」
B「そう。教会という一つのお皿があった。それが分裂して、破片になった。その破片が、自分たちはお皿だといっても、最初の丸いお皿を主張できるのか、という問いがあるわけです。それに、教会という言葉に固執する必要があるのか、という問いもありますね。無教会は教会という言葉を使わないで、集会という言葉を使っているし、それでも、そこに救いがあれば、いいのではないかと思いますがね」
A「救世軍は時々、教会という言葉を使いますね。理解してもらおうという配慮かも知れない」
B「プロテスタントとしてはカトリックの負けちゃいられない、という意識もあるでしょうね。その意識は改革派系の神学にはありますね。それに、どう応えるか、ここでカトリックは沈黙していたら、いくら、自分たちは唯一の教会だといっても、余り説得力はないかも知れませんね」

投稿: | 2007年7月14日 (土) 07時15分

A「CJC通信によると、バチカン声明には、反響が大きく、米長老教会、世界改革教会連盟などからも質問が寄せられている」

B「確かに。やはり、言い方の問題があったのではないだろうか。プロテスタント教会は、教会の名称を使っているのだから、それを、あなたがたは「教会」ではない、と言われたら、戸惑うし、また混乱するだろう。しかし、声明をよく読めば、「カトリックの教義によれば、その語の本来の意味において」という条件をつけているんだね。そして、この条件の下では、逆に、教会とみなすと言った方が、論理的矛盾と見られるのではないかと思う」

A「世界改革教会連盟からの質問状によれば、声明の見解は、「第二バチカン公会議前に一般的だった種類の考えや状況に戻すもの」と言われているね」

B「第二バチカン公会議後、カトリックの教会観が変わったとは、よく言われるところだね。「旅する神の民」とかの言葉も聞いたことがあった。しかし、その変化が、それ以前の見解と全く違っていたら、それは革命だよね。ところが、カトリックの公会議は、どれも基本的には革命ではない。だから、第二バチカン以前の見解でも継承されていく面があると思う」

A「このバチカン声明は、排他主義的精神であると受け止められているけれど」

B「プロテスタント教会を、以前は教会的共同体(あるいはキリスト教共同体か)と言っていたように思うけれど、そこには、やはり「教会」という言葉を使うことにためらいがあったのだろう。そのためらいの理由を、今度は率直に表明したということなのだろう。カトリックの中には、プロテスタント教会を、「教会」と呼ぶことに、最初から疑念があったのだと思う」

A「一体、何が問題なのだろうか」

B「叙階という秘蹟による使徒継承が欠けている、ただ、それだけを指摘したいのではないかと思うけれど」

A「それは、そんなに大切なのだろうか」

B「教会の見える一致には必須という理解があるのだろう。プロテスタント教会は、16世紀の宗教改革で、ルターが信仰義認を主張し、これが福音の核心だといったことから始まった。これを強力に主張するために、使徒継承を「捨てた」。そして、見える一致がなくなり、プロテスタント教会群が生まれた。それは、その時に出来た教会の定義のためであった。そして、それ以後は、そこで生まれた教会の定義で、教会を考えるようになった。そこに無理があったのではないだろうか。教会は16世紀以前にもあったのだし、当然、そこにも教会の自己理解というものがあったはずだ。そういう側面をすべて捨てて、16世紀の教会の定義で、教会史全体を見ていこうとすると、いろいろと、新たな困難を持ち込むかも知れない。「牧師」という名前は、16世紀以降に出てきたもので、それ以前はなかった。アウグスチヌスにしても、司教という肩書きであった。そういう教会の全体的歴史的洞察が求められているのかも知れない」

A「しかし、近世・近代は、この宗教改革の「成果」ではないのだろうか。その価値は、すでに不動のものになっているのではないだろうか」

B「確かに。しかし、近代の問題性も言われている。バチカン声明は、余りにも率直過ぎたということで反発もあるのだけれど、教会観に関しては、こういう声明が出て、一度、抜本的に考え直してみることも大切なのだはないだろうか。その刺激としては、意味があるかも知れない」

投稿: | 2007年7月16日 (月) 11時39分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「自己への愛」 | トップページ | 神秘体験 »