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2007年7月23日 (月)

義認と聖潔

「使徒があくまで主張するのは、聖潔が義認の先に起こることはできないと言うことであって、聖潔が、義認の後に続く必要はない、ということではないのである」『説教』(ジョン・ウェスレー著)

聖潔のあとの義認は、自力救済の教えであろうが、それは違うと思う。

また、義認には受動的信仰が必要だけれど、聖潔もそうだと言われると、それも少し違うような気がする。

生まれるというのは自分の意志ではないが、生きるということには、自分の意志が問われている。生まれることにも信仰が必要であれば、そこには自分の意志が働いているではないかという問いもあろうが、その意志は自力の否定の承認を意味するのであれば、生まれる前後に、ある断絶を見ることができる。

生まれた世界は当初は不案内だけれど、生きていれば、ある程度、事情が分かってくる。事情が分かれば、意志が有効であろう。生まれることには断絶性、成長には連続性がある。その連続性の中では、意志は必要なのではないだろうか。その意志は、聖潔あるいはキリスト者の完全を求めなければならない。それが一番、安全な生き方なのである。

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