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2007年7月20日 (金)

「救われた」

プロテスタントの中では、「救われた」という言葉が、よく使われる。信仰を持ち、新生したという意味なのだろう。しかし、「救われた」という言葉は、全部終わったという意味にもとれる。そう受け取ると、何のために生きているのか、という問いが新しく出てくる。

信仰義認、そして新生の事態は「救われた」と言ってもいいが、同時に「聖化のスタート」でもある。この聖化の目標として「完全」があり、「栄化(再臨)」がある。

「救われた」信仰者たちに、「栄化(再臨)」と比べたら、まだ「救われていない」側面もあるということを言わなければならない。とりあえずの目標が「キリスト者の完全」であり、「聖霊のバプテスマ」であろうか。

その「救われた」という事態は洗礼に当たり、「聖霊のバプテスマ」は堅信に当るのかも知れない。洗礼も堅信も秘跡であるが、秘跡は聖霊の働きと結びついていなければならない。

「救われた」ということは、洗礼の恵みを知ったという意味なのかも知れない。同時に、洗礼は、この「救われた」実感と、どこかで結びつかなければならない。

そう思うと、宗教改革の原点は洗礼の再発見なのだと思う。

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