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2007年7月 2日 (月)

きよめの信仰

東京聖書学院の小林和夫師退任講演「ウェスレー神学と情熱」がインターネットで紹介されています。

http://www.jhc.or.jp/tbs/kobayashi/01.html

そこに、ウェスレー神学の特色として「先行的恩寵の教理」「キリスト者の完全」「確証の教理」の三つが挙げられています。

その中で、「きよめ」という経験が「キリスト者の完全」であるという説明がされています。この「きよめ」というのは瞬間的・自覚的な経験です。

瞬間的というのですから、常にある、というものではないと思います。ということは、この瞬間は「キリスト者の完全」であったけれど、その瞬間が過ぎ去れば、その「完全」はなくなっている、という解釈でしょうか。

いや、そうではないかも知れません。「きよめ」の瞬間があり、その状態は、その後も継続する。だから、「キリスト者の完全」は、「きよめ」の後のキリスト者の状態である、そういう理解なのかも知れません。

説明によると、「きよめ」の瞬間があり、その後も、成長が続くという考え方のようです。

「きよめ」は一回限りの経験なのか、という問いがあります。新生の後に「きよめ」があるという理解はいいのですが、それは一回きりの体験なのでしょうか。新生が一回限りの経験であるというのは、それでいいと思いますが、「きよめ」が、もし聖霊の満たしと言われるのであれば、それは何度もありうるのではないかと思います。

キリスト者の完全とは、聖化の本質なのだと思います。聖化の道の中に常にあるもの、そして、聖化のゴールである栄化(再臨)へと、信徒の目を向けさせるもの、それがキリスト者の完全であると思います。それが自覚された時、「キリスト者の完全」という言葉が出てきたのだと思います。

新生後のキリスト者は、その自由意志を何に向けるか、それは大切なことです。その時、聖化のゴールに目を向けるべきです。それは栄化(再臨)なのですが、それをもっと分かりやすく、実践的に言い換えたものがキリスト者の完全ではないかと思います。その意味では、これは、ウェスレーにおける「再臨信仰」と言ってもいいのかも知れません。

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