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2007年7月16日 (月)

世界伝道

『信仰の高嶺めざして』(F.B.マイヤー著)には、世界伝道への勧めといった言葉がある。たとえば、次のような個所である。

「この危急の時代にあって、神の教会の全部分が、ただ知識や霊的経験だけではなく、世界伝道のため神によって召されている。これ以上に、はっきりしたことはない」

「もしすべての人がそれぞれの隣人を教え、すべての人がそれぞれの兄弟に「主を知れ」と言ったなら、全世界がくまなく伝道されるのに、そう長くはかからないであろう」

信仰を持って、まもなく、ある地域を定めて一軒一軒訪問して、トラクトをポストに入れたこともあった。旅行カバンにトラクトを詰め込んで、バスに乗って、僻地に向かい、配布したこともあった。その働きの間、恵みが与えられたと感じたこともあった。

しかし、トラクトを受け取った人は、どう思ったであろうか。自分は何をするのかと考えたかも知れない。

トラクトは「信仰のよる救い」を語り、救いを促すものである。しかし、では、信じたとして、その人はどうするのか。教会のないところで、どうして新しい経験を認識し、それを成長させることができるのだろうか。

伝道とは、単に知らせるだけではなくて、その後の成長にも責任を負うものでなければならないと思う。そういうものがあって、初めて、福音を伝えることができるのではないだろうか。なぜなら、信仰が後退してしまうと、それは信仰を持たなかった時よりも、悪くなる可能性があると思われるからである。

世界伝道というものは、教会が聖霊に満たされているのであれば、その中から、自然に実行されていくもののように思われる。言葉の前提に聖霊の現実がなければ、伝道は成り立たないであろうし、逆に聖霊の現実があれば、伝道の道は自然に開かれていくのであろう。

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