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2007年8月31日 (金)

説明責任

最近、説明責任という言葉をよく聞く。最近ではなく、そうとう以前から使われている言葉である。

自分の行為に対して、説明して欲しいというのだが、そこでは、謝罪が必要か、それとも、自分の正義を語るのか、説明責任の行使には法廷に立たされる思いがするだろう。

人の行為は裁かれるのである。説明責任という言葉で、現代の日本人は、人の行為は裁かれるのだということを教えられているのかも知れない。

説明責任を果たすということは、神の前に出るということと関係しているようにも思える。

些細なことにも説明責任を果たす姿勢は、それだけ神の目の前にいる自分を意識していることにつながるのであろう。

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献身

「直ちに従いなさい。そうすれば、従うことは比較的容易です。しかし、しばらく待っているなら、それはむずかしくなります。さらにもう少し待つなら、それについて立ち止まって検討するなら、必ず多くの障害が起ります。そしてほんとうに困難になります。ですから、直ちに従いなさい」(『献身』)。

「私は思うのですが、天にいる天使のかしらたちは、「なぜこの人たちは献身ということを、さもたいへんなことであるかのように語っているのだろうか。イエスに従うということは、いとも容易な楽しいことであるのに。」と言うに違いありません」(『献身』)

モーセの召命のシーンを考えた時、彼に求められていたのは決断であった。しかし、彼は躊躇した。躊躇は危険であっても、決定的な線を越えたのではない。神の不興が伝えられた。そして、彼は決断した。もし、神の不興の中で、彼の躊躇が続いていたら、その時は、一線を越してしまったかも知れない。そして、その段階では、従おうと思っても、従えないのである。

献身とは、神の声に応じることであれば、神の声がないのに、献身はない。それが神の声であることは、当人には分かる。不思議に分かるのである。

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無傷の者

「「傷のない者」--汚点がないということではなく、良心の責めがないということです」(『献身』)

「キリスト者の完全」も、汚点がないというのではなく、良心の責めがないという意味なのではなかろうか。汚点に着目するか、良心に着目するか、それで言い方が変わってくる。

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私家版・ユダヤ文化論

東京新聞(8月31日号)によると、8月30日、内田樹・神戸女学院大教授の『私家版・ユダヤ文化論』(文芸春秋)が第六回小林秀雄賞(新潮文芸振興会主催)に決まったとのこと。賞金百万円。

この本には、日ユダ同祖論にも触れている個所がありました。このテーマを、もっと発展させてもらいたいと思いました。

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2007年8月30日 (木)

マナーモード

バスの中 マナーモードの アナウンス
 携帯会話 楽しむ少女 

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2007年8月29日 (水)

人生の目的

「好むと好まないとにかかわらず、私たちはすべて建築師であります。いつの日にか、私たちが生涯かけて建てあげた人格という建築物はその姿を現わします」(『献身』)

「「私たちのいだいている思想で、石工の働きをしないものはない」とある大作家が言いました。この部分にあの部分、そして一層また一層と見えない建物ができてゆきます。やがて、それは人々と天使たちの前に現わされます。もしそうであるなら、人生というものはなんとおごそかなものになることでしょう」(『献身』)

自己実現と触れ合う思想が、ここにある。人格の完成、神が完全であるように完全を目指すこと。日常の生活の中で、こんなことを少しは考えた方がいい。

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ソボルノスチ

正教会は儀式的なキリスト教である。しかし、この中で、儀式的宗教に対極にあるような、教会の本質にかかわるような観念が生まれている。

ベルジャーエフの本のよく出てくるソボルノスチという言葉が、それである。この提唱者はホミャコフという。

ホミャコフのソボルノスチは、「全くロシア的な感覚であり、ロシア的共同体意識であり、合唱の原理であり、およそ何らの外面的保証も持たない愛と自由の統一である。この観念こそ純ロシア的である」(『ロシア思想史』ペルジャーエフ著、田口貞夫訳、ぺりかん社、61-62頁)

また、こうも言われている。

「人格は他の人格を予定し、またその人格との交わりを前提とする。これがいわゆるソボルノスチ、換言すれば人格と人格との兄弟的な交わりのことである。人間の霊的生活はこうした交わりの中に本当に具体的な形をとってあらわれる」(『人間の運命』ベルジャーエフ著作集、白水社、670頁)

内村鑑三の無教会も、このような「人格と人格との兄弟的な交わり」を重視したのではないだろうか。そして、この中に、教会の本質を見たのではないだろうか。

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銀座カンカン娘

秀子さん 持ち歌とのみ 思えども
 いずみさんのも なかかいいよ

ラジオ深夜便「こころの歌」(8月29日朝)で、雪村いずみさんの特集があった。「銀座カンカン娘」を歌った。これは高峰秀子さんが歌っていたと思うけれど、雪村さんの歌もよかった。

歌詞が表現しているツッパリ娘の雰囲気がよく出ていた。

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吉村昭さん

ラジオ深夜便の今朝(8月29日)の「こころの時代」で、作家の故吉村昭さんの妻で、共に作家の津村節子さんのインタビューがありました。2回続きで、今日は1回目でした。

吉村さんは開成の先輩でした。生前、お会いしたことはありませんでした。遠藤周作さんの1周忌の時、記念会があり、そこで、まだお元気だった、故中村真一郎さんとお会いしたことがありました。話をしたのは、この1回きりでしたが、その時、「歴史小説を書いている、あの人、なんと言ったっけ」と、中村さんが言われたので、「吉村さんではないですか」と言うと、「ああ、そうそう」と思い出されたようでした。

中村さんも、開成の先輩で、それ以前に、開成のマスコミ関係者の会が作られたようで、そこに吉村さんの名前があったかも知れません。その会が、今、どうなっているのかは知りません。

インタビューでは、吉村さんは、宗教とは全く関係ない人で、人は死ねば無になるだけ、といった思いの人だったようです。

津村さんは書くのが仕事ですが、話もうまいなあ、と魅せられました。

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孤独の価値

「主とただひとりでいる習慣のある人々だけが、変貌の恵みにあずかるのです」(『献身』)

これは自分の変貌を指している。しかし、自分が変貌すれば、自分の世界も変貌するのである。だから、孤独な人たちは、次の世界をもたらす人たちなのである。

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2007年8月28日 (火)

聖霊の流れ

「王座から聖霊の賜物、絶え間なく流れ続ける流れが来ます」(『献身』)

聖霊の働きに対する関心が信仰生活の勝利の鍵なのだろう。異言、預言と、解釈はいろいろあろうが、聖霊カリスマ運動の意義は、聖霊の働きへの関心を呼びかけた点では、きっと大いに意味のあることであった。

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自然神学

「聖パウロは、『ローマ人への手紙』(1.19-20)において、神の永遠の能力と神性とが被造諸物を見ることによって直接的に知られることができると説いて、ギリシア人における神の純粋に合理的な認識の可能性を含意的に主張しているが、かれはそれによって、のちにキリスト教の内部に起るべきすべての自然神学の基礎をすえた。
(同じ考え方は、『知恵の書』(13.1)に見出され、後にまた教皇レオ13世によって、回章の中に引かれている)」(『中世哲学の精神』上、E・ジルソン著、服部英次郎訳、38ページ)

自然神学の権利を主張しているのはパウロなのだということである。バルトは自然神学を否定したと言われているが、この個所をどう解釈しているのだろうか。

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2007年8月27日 (月)

半ペラギウス

改革派関係の本には、カトリックは半ペラギウス主義なのだという批判が見られるのだが、教会史的には、この考え方は、既に決着がついているのである。

「ペラギウスはブリタニアの修道士だった。彼は評判が高く、人間は人間の力だけで完全な徳行ができ、恩寵の助けがなくとも救われ得るという教理を主張した。この説は原罪の否定であり、キリストの贖いを無益なものとする。それはアダムの影響を悪い前例とし、キリストは単なる模範にすぎないと考える。これに対し、ヒッポの司教アウグスチヌスが戦った。しかし、ペラギウスの高い評判と、彼の同志ケレスティウスの巧妙さにより、この教説は広まっていく恐れがあった。
 そこで問題はローマに持ち込まれた。何事も教皇でなければ決定し得なかった。当時の教皇はイノケンティウス1世(402-417)だった。イノケンティウスはローマに教会会議を召集、この異端説は断罪された。その直後、教皇が亡くなり、後継者ゾシムス(417-418)は、初め、異端者がみせかけだけの前説取り消しに欺かれていたが、418年にローマ教会会議を再召集し、席上、「トラクトリア」と呼ばれた回勅により、ペラギウス派に決定的宣告を下した。この教皇決定が至る所で受け入れられ、分裂は終わった。
 その後、この謬説の弱められた党派(これは半ペラギウス派、またはマルセイユ人の謬説といわれる)は、529年にオランジュの会議で断罪され、この決定を教皇ボニファキウス2世(530-531)が批准することで、決着がついた」(『教皇』カトリック全書80、W・ドルメッソン著、橋口倫介訳、ドン・ボスコ社、97-98頁)

だから、カトリック教会は半ペラギウス主義ではない、と言えるのではないだろうか。

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大宮八幡宮

八幡の 宮を訪ねて 立ち止まる
 ヤハウェの宮に 似ているかもと

八幡はハチマンと発音するのですが、ヤハタとも読めると思います。ヤハタとヤハウェは、いくらか似ています。

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先祖の話

法事なぜ 先祖の話 よい機会
 自己認識の 深まる時か

法事なき 人にとっては 自分史か
 文庫で出せば 費用少なく

私は民俗学には余り関心がなかった。しかし、自分の先祖の話には関心が大いにある。それは今の自分と関係があるからである。

法事とは親戚の集う、よい機会なのであろう。そこで、先祖の話が出て、自分の自己認識が深まるかも知れない。

しかし、法事が余りなくなっている人には、どうしたらいいのだろうか。自分史でも書いたらどうか、と思うのだが。

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2007年8月26日 (日)

マスコミ

マスコミは 権力に寄る 避けがたく
 批判の使命 国民のため

行き過ぎて 社会の乱れ その因に
 薬と毒の 両方持って

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2007年8月25日 (土)

神の子

8月3日から5日まで、横浜市神奈川区のかながわ県民センターで、第14回AIDS文化フォーラムin横浜が行われ、2日目の「宗教とエイズを考える」分科会で、幸田和生・カトリック東京大司教区補佐司教が話をされた。

『キリスト新聞』9月1日号によると、同司教は、「すべての人は神の子であり、お互いに兄弟姉妹」と語ったという。これ自身は、別に問題ない発言のように思えるのだが、少し、内容を確定しようとすると、あいまいさが残るかも知れない。

一体、「すべての人は神の子」というのは、どういう意味なのだろうか。

すべての人は神によって創造され、神の像を持っている、という意味であるなら、そうだろう。そして、それ以外には、「すべての人は神の子」という言葉を解釈することはできない。しかし、聖書は、「神の子」という言葉を、そのようには使っていないのである。

聖書では、「神の子」は、次のように使われている。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ8・15)

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(第一コリント1・9)

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3・26)

「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1・5)

要するに、新約聖書では、「神の子」という言葉は信徒に対する言葉として使われている。すべての人に向けて使われてはいない。そして、「お互いに兄弟姉妹」というのも、信徒の間の言葉であれば、そう言えるであろうが、全人類を相手に語られているとしたら、聖書の用語ではないのではないだろうか。

あるいは、「無名のキリスト者」という包括主義の中で、他宗教者も、信仰を持たない人も、すべてを、この言葉に包括する意思の表明なのであろうか。

私は、「神の子」という言葉を安易に使うべきではないと思う。

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ヘーゲル哲学

「周知の如くヘーゲルは、宗教と哲学とがその対象を同じくする事を承認しながらも、その対象を捉へる方法が宗教にあっては未だ表象(Vorstellung)に過ぎざるに対して哲学にあっては概念(Begriff)なるが故を以て、後者を前者の上位に立つものと考えた」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

ヘーゲル哲学の本質は宗教哲学なのだと、著者は言っているのではないでしょうか。

しかし、表象と概念の比較が必要で、なぜ概念使用の哲学が上位なのかという疑問は残るでしょう。

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どんな縁 袖擦りあうの 怖さ知る
 思いもよらぬ あとの人生

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科学の技術

科学とは 好奇心なり 技術とは
 人の必要 動機の強さ

エジソンは技術者であったと思いますが、動機には科学者的な側面があったように思います。

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自立心

自立心 生まれた時と 死ぬ時を
 朝夕共に 眺めることで

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長寿社会

平和あり 長寿社会 出来たけど
 老人介護 老人の手で

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教養の意義

教養は コミュニケーション 深化道
 ドス氏復活 人を問う人

ドス氏とは、ドストエフスキーのこと。「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出て、読まれているとのこと。

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君らの出番

ニートさん 引きこもり フリーター
 歴史を変える それは君たち

君たちは、現代社会では出番はないのかも知れない。だから、現代社会からは、余り重んじられないかも知れない。

しかし、神は、もちろん、君たちを忘れてはいない。神は、君たちを通して、次の時代を準備しているのだ。君たち出番は、次の時代にあるのだ。

なぜ、こんなことを言えるのだろうか。その答えは、こうである。

ニートさん、引きこもりさん、その特徴は孤独ではないだろうか。孤独、それは次の時代を作った人たちの特徴であったのだ。

たとえば、アインシュタイン。彼は古典力学の次の時代を作った。そして、彼の特徴は何であったか。それは孤独であった。その証拠を、お見せしよう。

「その生涯を通じて、アインシュタインはある意味で非常に孤独な人であった」

「アインシュタインが、その周囲に与えた第一印象は、他人と相容れないということであった。彼は誰に対しても同様に振舞った」

「アカデミックな世界でアインシュタインが孤独な位置にいたのは、また彼が同職者間の日常生活の問題に加わることを好まなかったという事実にもよるのである。彼にはそんなことを真面目にとりあげることができなかったのである」

「その周囲から独立しているというのが、いつもアインシュタインの特徴であった」

「彼は、彼自身では他の人々と非常に離れていると感じている。そして彼は、決して他の人々と非常に強く提携することはない。彼はいつも何か外来者であるという感じをもっている。そして孤立していたいという望みさえもっている。しかしながら他方、彼は人間的な事にはすべて好奇心をもっており、また大きなユーモアのセンスももっている」

以上の引用は、『アインシュタイン』(P.フランク著)からの抜粋である。

どうだろうか。似ているとは思わないだろうか。

しかし、念を押しておかなければならない。アインシュタインは孤独であった。しかし、孤独な人は、必ずしもアインシュタインではない、ということ。それでも、孤独な人たちは、アインシュタインになれる可能性があるかも知れない。その可能性を指摘したまでのことである。

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2007年8月24日 (金)

ヴァンパイア

吸血鬼というと、ドラキュラが有名だが、ヴァンパイアという名で登場する場合もある。ヴァンパイア関連の映画は何本もある。人気映画なのだ。

ヴァンパイアは、人の血を吸って生きながらえる。姿は人だが、食物である人の血がなくなると、形相は苦痛で歪む。

ヴァンパイアは、いったい何者なのだろうか。美女の生き血を吸うのが定番だが、美女の登場は娯楽番組仕立てのためであろう。
   
「血は命」とは、旧約聖書に出ているが、他者の血を求めるヴァンパイアは、言って見れば、人の命を、自分の生存のために不可欠のものとして求めているのだから、人間に悪をなすもの、悪魔的存在といえるかも知れない。
   
人の血があれば、永遠に生きるという。永遠ではなくて、永久、永劫という言葉の方がいいかも知れない。要するに、時間的に無限という意味なのだから。しかし、この中に、人間の深い願望が表明されている。

永遠は永久ではない。しかし、その違いを表現できないので、永久と永遠を混同して使う。
   
ヴァンパイアは十字架を極度に恐れる。闇を愛し、光を憎む。
   
こんな存在を、最初は、自分の外にいるものと考えていた。もちろん、現実には存在しないと思うけれど。
   
しかし、どこか、自分の外にいるのではなくて、自分の内にいるのではないだろうか。そう考えるのが正しい解釈なのではないだろうか。

人間は、生きるために、他者の命を犠牲にしている。もちろん、他者が人であれば、それは罰せられるが、日常的に、動物の命を犠牲にしている。それは何も悪いことではないと、誰もが考えているが、命を奪って、自分の命を永らえさせている構図は、ヴァンパイアの生き方と何ら変わらない。
   
ヴァンパイアの創作者は、こんな苦しい存在の仕方を強いられている人間について語りたかったように思える。しかし、思想的にはキリスト教的背景がないと、こんな物語は生まれないだろう。

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無教会

吉満義彦は、「カトリック的宗教復興の現象と理念」の中で、無教会について、「大なる世界基督教の「体」より遊離せる旧きリベラリズムの教養層のイデオロギイに過ぎない、余りにも初歩的な!」と評している。

大なる世界基督教の「体」というのは、彼にとってはカトリック教会なのだろう。

この評は当っているのだろうか。無教会には、こんな一面もあるかも知れないが、根本は違うと思う。

吉満は一高時代は、内村の聖書研究会につらなる人であった。その後、帰朝した岩下神父の影響でカトリックになった。だから、無教会を知らないわけではない。

内村の文章を読む時、それは「旧きリベラリズムの教養層のイデオロギイ」とは、とても言えない。

昨日、神田の古本屋で、アテネ文庫『無教会キリスト教』(関根正雄著)を買った。それは、「旧きリベラリズムの教養層のイデオロギイ」とは無縁である。

無教会の論客の一人であった故関根教授とは、一度、会ったことがある。

昭和40年代の前半、四谷の上智大学で、日本基督教学会の大会があり、私もシンポジウムの話を聞いていた。すぐ前に関根教授がおられた。

この時は、カトリックからはデュモリン、ネメシェギといった神父たち、プロテスタントからは、滝沢克己教授が出席されていた。滝沢教授に質問が集中していた。

関根教授には、教会と無教会との対話、対論といった本もあるが、今、こんな議論のできる人が、教会の中に、また無教会の中に、果たしているだろうか。

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競争社会

ふと見れば 競走社会 広がりて
 ことさら言うに 及ばざるかと

右でも競争、左でも競争。あえて、競争が大事という必要はないくらいだ。

競争するには、モチベーションが大切。勝ったところで、「たかが」という思いがあれば、そこに真相があるのかも知れないが、その真相を隠して狂奔しているのが、我らの社会なのである。

「たかが」では、競争はできないからだ。

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2007年8月22日 (水)

残暑

セミの声 残暑厳しき 折なれど
 涼やかに鳴く 吹く風のごと

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マスコミ

売らんかな サタンと結ぶ マスコミが
 空気を乱し 病む人増えて

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伏線

不思議だな 遊び半分 始めたら
 別の目的 隠れていたよ

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弱さ

宗教を信じるなんて、弱いからだ。そんな言葉を、以前、聞いたことがある。「宗教は民衆の阿片」といったマルクスの言葉の影響かも知れない。

同じ宗教でも、創価学会など、弱さを感じさせない。だから、宗教一般には当てはまらない言葉なのかも知れない。

しかし、弱さの証拠と言われて、それも正しい一面を表していると思う。「善悪の木の実」を食べた人間は、自分が中心になって、善悪を判断している。しかし、その善悪は、果たして本当に正しいのか、という反省があるとすれば、それが宗教の「弱さ」との指摘に結びつくのであろう。

カントも倫理の定義の中で、格率という難しい言葉を使って説明しているが、要するに自分中心ではいけない、ということである。

弱さというものは、そういう意味に解するのであれば、納得されるのではないだろうか。

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2007年8月21日 (火)

熱中症

猛暑なり 熱中症で 死者多し
 明日も無事だと 思うけれども

明日も無事だという保証はないと思います。

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2007年8月20日 (月)

聖餐の瞑想

プロテスタントでは聖餐、カトリックではミサ聖祭と呼ばれているものがある。キリストの最後の晩餐を、その起源とする。しかし、そのずっと前にも思いを馳せるべきではないのだろうか。

それはエデンの園である。

「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(創世記2・9)

原罪とは、「善悪の知識の木」から食べたことを意味している。そして、「命の木」から食べることができなくなった。そこから悪が広がってきた。人は、その悪の前に無力である。

そこで思う。聖餐、あるいはミサというものの連想は、この「命の木」から食べることにつなげてもいいのではないだろうか。

カトリックでは、信徒使徒職という言葉がある。そこには、司祭だけでなく、信徒も福音宣教のわざに参加すべきという思いがある。聖書には、大宣教命令と文化命令があるといわれる。これはプロテスタント的言い方である。

大宣教命令とは、新約聖書にある、文字通り福音を伝えることであり、伝道者の、あるいは献身者のわざである。文化命令とは、旧約聖書の冒頭にある「地を従わせよ」(創世記1・28)というわざである。

伝道者のわざは第一に福音宣教である。そこで信徒も、そうなのだ、と言っていいのだろうか。信徒の使命は文化命令なのだ、とは言えないのだろうか。

福音とは、追放された楽園への回帰である。いや、少し違う。新しい楽園には、「善悪の知識の木」はない。ただ、「命の木」があるだけである。そして、聖餐ごとに「命の木」から食べて、文化命令に励む。信徒の根本意識は、それでいいのではないのだろうか。

聖餐、ミサというものは、その原点である最後の晩餐への瞑想を誘うだけではなくして、さらに、その奥にある追放された楽園に意識を連れ戻す役割りもまたあるのではないだろうか。

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関心

「哲学は普遍的である。哲学がかかわりをもたないものは一つもない。哲学的に思索する者は、すべてのことに関心を持つ」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

これは真実であろうか。違うと思う。人はすべてのことに関心を持つことができない。ただ、哲学は、すべてのことに関心を持つことが許されていると言うべきではないのだろうか。人には限界がある。その限界を知ることも大切であろう。

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2007年8月19日 (日)

出版の現在

以前は出版に関心があった。採用にならなかったが、出版社で働こうと思い、応募したこともあった。

しかし、今、出版のあり方が変わってきたいるように思える。インターネットで、誰でも情報の発信が容易に出来る時代になった。そこから出版のあり方も変化してきているのではないだろうか。

それは著者から読者への一方方向ではなくて、「参加型」でないと、出版はうまくいかないのではないかという観測である。私は作る人、あなたは読む人では、売れるものを作れるかという問いに出版人は悩まされるだろう。

要するに、ある特定の人だけが本を出す時代は、もう終わっているのではないかという認識である。今は、誰でも本を出すこができる。言ってみれば、自費出版が面白いのではないだろうか。

しかし、自分だけの自費出版ではなくて、共同の自費出版の方が、より「参加型」といえるだろう。

出版は志の事業だと言われる。志のないところに、出版はない。志を持つ者たちが、この時代にふさわしいやり方で、費用を出し、本を作り、頒布する。頒布は最初は贈呈かも知れないが、新しいネットワークが出来て、さらに展開が期待されるかも知れない。

志は、特定の人に限られるのではなくて、広く一般の人々に開かれるようになっているのではないだろうか。

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転機

「私は自分を保存しようと思い、防衛した時、貧しかったが、完く捨身してより、以来、全部を所有することができた」(『神秘主義・象徴主義』)

ベルジャーエフについて書かれている部分だけれど、宗教的な転機を語ろうとしているのだろう。

原罪の影響は、自己保存のはからいである。しかし、そのはからいを捨てた時に、自己は小宇宙になる。外なる大宇宙と、内なる小宇宙との感応の中に、新しい歩みを始めることが出来るようになる。

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地位

地位なんて そうは思えど 世の中は
 地位に目配せ 権力志向

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北の核

北の核 日本に向けて 備えらる
 理由知りたい それが第一

北朝鮮の核のターゲットは日本と、元防衛庁長官の石破氏がテレビで言われていた。消去法でいくと、残るのは日本以外にないという理由である。

しかし、なぜ、北朝鮮は日本をターゲットにするのか、その理由が知りたい。そして、その理由に対応していきたい。

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2007年8月18日 (土)

変化

「人間の秩序は、歴史的な生存条件の不断の変更に応じて、自分でもたえず変化しなければならない。われわれは世界を正しく組織することができない。われわれは世界をいつまでも変わらない持続にもたらすことができない」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

社会は変化している。それに応じて、自分も変化しなければならない。

もちろん、変化しないもの、してはいけないものもある。
変化と不変、この両者の関係の中で、人間は生きている。

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齋藤孝先生

何やらと 面白き人 いで来る
 ソフト開発 待ってましたと

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2007年8月17日 (金)

一者

『プロティノス』(鹿野治助著)の中で、一者について、次のように語られている。

「一者は、下のものには、真、善、美として現ずるも、自身は真でも善でもない。それらの対立をはるかに超えたものなのである」

「一者は最根源的なものとして存在以上のものであり、存在は一者より低次のものであるから、一者について存在を問うことは意味をなさない」

「一者をたとい認識することが出来ぬとしても全然出来ぬわけではない。むしろ我々は一者自身を語ることは出来ないが、それについて語るという仕方では出来るのである。また、たしかに我々はそれが何であるか語ることは出来ないが、それが何であらぬかを語ることは出来るのである」

これらは神について語っているのではないだろうか。創造について、否定神学について、語られている。

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地球国アジア県日本村

われらの住む日本は日本国です。しかし、自分の視点を少しずつ高めていくと(目を持つ主体が少しずつ昇天していくと)、「地球国アジア県日本村」という風景が目に入ってくると思います。

さて、今話題の憲法論議の視点には日米安全保障条約との関係が不可欠と思います。
   
その中で、現憲法の指し示す遠景には「地球国アジア県日本村」の風景が見えるのですが、それはもう遠景ではなくて、既に実感する時が来ているのかも知れません。
   
平成8年、沖縄米軍の用地収用期限切れによる不法占拠状態を回避するため、政府は駐留軍用地特別措置法(特別措置法)を改正しましたが、その時の与野党の議論の中に、現憲法の性格が現われています。
   
当時の梶山静六官房長官は、日米安保条約がなければ、日本には軍事大国への道しかない、と言っています(「東京新聞」4月16日)。
   
これは、日本の憲法は軍事大国への道を拒否しているにもかかわらず、それだけでは不充分だと言っているのです。憲法の理想の絶対平和・絶対非戦は、あくまで理想であって、それだけでは現実の政治は出来ないと言っているようです。
   
日本の周辺諸国でも、日本の軍国主義の犠牲になった地域の人々は、日米安保の存在が少なくとも日本軍国主義の再興を阻止していると思うことができるでしょう。日米安保肯定論の一つです。
   
「主権国家」的発想の下では、そうなるのでしょうが、戦後、そのような発想では世界から戦争がなくならないというので、別の発想を模索した人たちがいました。そのビジョンを示唆しているのが日本の憲法という理解もあると思います。
 
さて、梶山発言に対称的なのが、土井たか子・社民党党首(当時)の発言で、第三回定期党大会で、「特別措置法には違憲の疑いがある」と言いました(「読売新聞」4月19日)。
   
特別措置法のバックには日米安保条約がある、その日米安保には違憲の疑いがあるという指摘が隠されているようですが、ある意味で筋が通っています。しかし、社民党の前身、日本社会党が政権政党になった時に、安保・自衛隊を承認したので、その流れからすれば、特別措置法違憲論には、党内でも、面倒な議論が出るように思います。
   
いま、憲法論議が新たに始まろうとしていますが、憲法と日米安保条約との関係を問うことをしない場合、余り、意味あるものとはならないように思います。
   
現憲法は、どう考えても米国に依存したものであることは否定できません。それは、第9条によって軍備を持たないと宣言しつつ、その不安というものを日米安保で補っているという構造があるからです。
   
憲法を純粋に読んでいたら、それは日米安保を認めていないと思います。憲法は日本が他国から攻撃される状況を予想していないのです。日本は国際社会の中で丸腰でいろ! と言っているのです。
   
そんな憲法を日本に提供して、それに矛盾している日米安保の相手となっているのも、同じ米国なのです。
   
だいたい、主権国家にとって、自国の安全というのは一番大切なことではないでしょうか。自国が滅んで何の憲法か。その一番大切な部分を米国に依存しているというのが、現在の日本のあり方です。
   
戦後日本は、こうして、国の存立の中心的部分で米国との関係に支配されているといったらいいと思います。
   
日本の危機というものは日米安保が変動した時にやってきます。それは二国間の条約なので、一方が破棄すれば消滅します。

梶山氏によれば、その時には日本は軍事大国になるしか選択肢はないということになります。憲法がああだから、日米安保が必要なのだという梶山氏の議論は、憲法を変えれば、日米安保も変わるかも知れないという意味を含むと思います。憲法改正論者は日米安保の存続を当然と思っているかも知れませんが、この二つは、どこかで繋がっているという理解もしておいた方がいいかも知れません。
   
憲法を順守するとしたら国際社会の中で丸腰にならないといけないし、それが嫌なら、日米安保を認めるしかありません。この矛盾を矛盾としないで生きているのが、今の日本であり、理屈は最高裁判所で作られています。
   
もちろん、憲法をそのまま読めば、日米安保というものを予想してはいません。憲法が支えとして予想しているのはむしろ国連の機能ではないかと思います。国連中心主義の国際的視野、その世界観の中で生きることが求められているように思います。
   
そんな世界観がやってきたときには、「地球国アジア県日本村」という風景が見えるでしょう。その風景の中では日本国首相も日本村の村長さんでしかありません。日本語は一つの方言にしか過ぎません。こんな風景を見なければ、時代遅れになる、そんな時にさしかかっているのではないかと思います。
   
もちろん、「日本国アジア県地球村」といった風景を見ている人もいるでしょうが、日本は全世界を向こうに回すほどに特殊な国なのか、といった問いに、私は答えを持っていないので、そんな風景は目に入りません。

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老いる

老いるとは ゆっくりと死ぬ ことなのだ
 だからサヨナラ 日々書き続け

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千の風

死者たちと いかに対面 千の風
 生者よ己が 道を行けよと

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2007年8月16日 (木)

死の瞑想

死の前に死がある
死の後に死がある
   
だから、人には
合計三つの死がある
   
しかし、三つの死を
経験する人はいない
   
人が経験するのは二つの死
真中の死と、その前か後の死
   
真中の死は、誰でも知っている
肉体の死、生物としての死
   
その前後の死は
人間としての死
   
後の死を知る人は一人もいない
人は誰も死後を知らないのだから
   
前の死は知られている
無数の証人がいる
   
証言は
その死を通して得られたもの
   
新しい世界の実感が
後の死はない、という
   
人の未来は知られ得ないのに
そのように言う人たちがいる
   
肉体の死は
その前後の死を考えるきっかけ
   
後の死は、自由意志の彼方にある
前の死は、自由意志の射程にある
   
死について考えること
それは生について考えることでもある

死を覚えよ
中世の合言葉だ

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風景としての宗教

風景に 批判はあれど 宗教の
 時代終えたる 姿一瞥

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2007年8月15日 (水)

認識と理解

「死せる形を認識する手段は数学的な法則である。生きている形を理解する手段が類推である」(『神秘主義・象徴主義』)

我とそれ、我と汝。われわれは物の世界と、思惟の世界の二つに囲まれている。

「自己の基礎的な原理から、すべての論理的結論を最後まで導き出すというのが、アインシュタインの研究方法の特徴であった」「実際アインシュタインは実証主義者であり経験主義者であった」「慈善的な社会及び政治団体に真面目に協力している折に、アインシュタインは突然あなたに次のように言うであろう。「真面目に言って私は、人にはさして関心がなく、ただ物に関心があるのです。」と。そしてもしあなたがその「物」とは何を意味するのかを彼に尋ねるならば、彼は「物理的現象と、それらを取り扱う方法」と答えるであろう」(『アインシュタイン』P.フランク著)

アインシュタインの目は物に向けられていた。実存的な問いは感じなかったのだろうか。理科系と文系、両方が必要と思う。

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観光地・東京

東京が 観光地とは 知らざりき
 歴史散歩 道にプレート

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沈黙

罪を負い もの言わずして プリズンの
 露と消えにし サムライたちよ

イエスまた もの言わずして 処刑さる
 サムライ心 通じるものも

巣鴨プリズンで処刑されたA級戦犯はアジア諸国に対しては加害者であったかも知れないが、また近代史の被害者でもある。そして、判決を受け止める意志においては犠牲者でもある。あえて犠牲者になろうとする意図には、イエスに通じるサムライの心を感じるのである。

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2007年8月14日 (火)

教団代表

教団の 名前を出して 発言す
 教団広し 意見さまざま

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神の行動

「神は私たちの理性を越えて行動されるとしても、私たちの心に神から与えられた道徳的な直覚に矛盾するようなことはなさらない」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

神は超理性的であるかも知れないが、反理性的ではない。

しかし、奇跡は反理性的ではないだろうか。

奇跡を対象化して見るならば、反理性的に見えるかも知れないが、それは奇跡というものは対象化して見るべきものではないから。

奇跡の意味は、「道徳的な直覚に矛盾」してはいない。

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第二バチカン後

旅人へ 相対化へと 舵を切り
 対話生まれど 浅き憂いも

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統帥権

軍人に 統帥権は 死ぬためで
 文民の下 覚悟生まれず

司馬遼太郎さんが、統帥権の問題を書いておられた。日本の敗戦の一つの原因としてである。

しかし、思えば、これは戦争で死ぬ覚悟を軍人たちに容易に起こさせるための装置ではなかったかと思う。

そこには、死ぬことが、どこか殉教者となることと結びついて、死ぬことに価値が付与されるという仕組みがあるような気がする。

天皇のために死に、靖国神社に祀られ、日本国の殉教者として長く記憶される。軍人は、そう思いながら、死地に赴いたのではないだろうか。

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落差

終戦の日が近づくにつれて、戦争関係のテレビが多くなります。日本の戦前が紹介されて、戦後との違いに愕然とすることがあります。

そして、北朝鮮を思う時、日本において戦前と戦後という時間の経過と共に区別されるものが、朝鮮半島では、38度線を境にして、今も別の空気が支配さているように思います。戦前が北朝鮮、戦後が韓国。なぜ、そんなふうに思うのだろうか。

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夏去りぬ

朝涼し 夏も終わりか 終戦の
 日を前にして きざしに気づく

8月15日を境にして、夏の気分はなくなるのでしょうが、8月14日の今日、朝の涼しさで、その予感があります。

終戦の日までは、夏という気分です。

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2007年8月13日 (月)

痛み

「人間は(善や信仰なくとも)痛みそのものに於て神と結合し、(悪や不信なくとも)痛みなき事に於て神との断絶を激化するのである」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

この痛みとは何だろうか。次のような個所を連想する。

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)

「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(ローマ9・3)

恐らく、痛みとはただ祈るしかない、そんな境地だあろう。しかし、「このただ祈るのみ」ということが重要である。

「善や信仰なくとも」と著者は言う。「善」はカトリック、「信仰」はプロテスタントを意味しているのだろうか。しかし、それらはまだ不十分と言いたいのかも知れない。祈りは信仰を含むのだし、善の前提である。ということは、真実の祈りは「痛み」を前提としている、と言いたいのかも知れない。

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善意の人々

悩ましき 善意の人は 匿名の
 キリスト者だと 思えラーナー

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完全と文化命令

「キリスト者の完全」を求めていくという聖化の道は、それだけでは何か足りないような気がする。それが、文化命令なのかも知れない。

「地を従わせよ」と神はアダムに言われた。アブラハム・カイパーは、これを「文化命令」とよび、彼の後継者たちは「創造命令」と呼ぶ。

堕罪による呪いを受けている段階では、文化命令に従う余裕はない。しかし、聖化の道は、「堕罪による呪い」の問題が根本的には解決した人たちの歩む道である。当然、心には余裕ができる。そして、その余裕は、改めて、「文化命令」の妥当性に心を向かわせる。

ところで、従わせよといわれる「地」とは何か。

大宇宙であり、外なる自然と思うかも知れない。自己自身である小宇宙、内なる自然も、「地」ではないだろうか。

文化命令は、主人になれ、と読めるのだが、「よき管理者たれ」が本意であろう。自然は、「よき管理者」の出現を、今も待ち望んでいる。新生、聖化の道を歩むことは、大自然が、それを歓迎しているのだと思う。

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人間は体を持っている。誰でも持っている。体の不調は病気という。病気は珍しいものではない。

病気になり、治療する。体の治療である。しかし、病気の意味は心に向かう。病気の意味を考えない人も多いかも知れない。そこでは、本当の治療はないのかも知れない。

自然の支配は、科学技術によるものと思っている。そんな自然が、人間の眼前に広がっている。

しかし、自然の支配は、科学者、技術者にだけ向けられた使命なのではない。すべての人の使命でもある。それは、体という自然を、すべての人は切り離すことができないものとして持っているからである。

体、それは心のバロメーターである。体を嫌う者は、生きることを放棄する以外に道がない。

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2007年8月12日 (日)

中国のキリスト教

『週刊新潮』に最近、キリスト教関係の記事が出ている。8月16・23日夏季特大号では、「中国人の1割は「キリスト教徒!」」の記事がある。その中では、こんなふうに紹介されている。

中国には、プロテスタント系の「三自愛国運動委員会」とカトリック系の「中国カトリック愛国会」があり、政府公認になっている。

「三自愛国運動委員会」は、1950年の朝鮮戦争の時、反米・北朝鮮支援の政府方針のため、キリスト教も外国依存から脱するため、独自の方針を立てた。それが「三自」で、教会政治の「自治」、財政管理の「自養」、伝道と神学教育の「自伝」を意味する。06年4月の政府発表で、信徒数は1600万人という。

「中国カトリック愛国会」は、57年、中国とバチカンが国交断絶したあと、翌58年から、神父の叙階を独自で行い、06年4月の政府発表では信徒数は530万人という。

ということは、06年4月段階で、2130万人のキリスト教徒がいるということを政府は認めていることになる。

しかし、中国には、政府公認ではない教会もあり、記事では「家庭教会」と言われる。「家の教会」とも言うのではなかったか。それらは、現在、7000万から8000万人いるといわれている。

そうすると、政府公認と合計すると、9000万から1億1000万人くらいがキリスト教徒になる。

しかし、国務院国家宗教事務局の葉小文局長の報告では、1億3000万人のキリスト教徒がいるともいう。この数字が、「中国では人口の1割がキリスト教徒」の意味である。

ということは、宗教人口は、もっと多いのではないだろうか。05年、華東師範大学の調査では、16歳以上の中国人で信仰を持っている人は推定3億人(31・4%)という。これだけの宗教人口がいて、無神論の共産党一党独裁政策は、どこかに無理が出るのではないだろうか。

詳しくは、『週刊新潮』を読まれたい。

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神の像

「神の像」に関して、『人間の尊厳と科学技術』(教皇庁国際神学委員会、カトリック中央協議会)という冊子があります。

表題からは「神の像」のテーマは推測できないのですが、詳しく説明しています。

私は、「神の像」と「神の似姿」の区別をしている、イレナエウスの考え方に共鳴しているのですが、この冊子では、この区別をしないで、「神の像」という言葉で、説明しています。

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現代の神話

原爆と ソ連崩壊 欠かせない
 その意味何か 神話に託し

枢軸の 国を眺めよ 日独伊
 旧と新あり 日本は何か

民族の 苦難は同じ 日ユかな
 同祖の説も あるが真か

アジアにて 西と東の 果てにいて
 極限苦難 共に経験

前世紀 戦争で終え くぐり抜け
 新世紀また 戦い止まず

一神の 教え奉ずる 民狭量
 平和の教え そこにはないと

ミレニアム 期待を込めし 時昔
 歴史は今も 課題山積

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2007年8月11日 (土)

死ぬとは

死ぬということは、人間の体と心のバランスというか連絡が切れることなのだろう。

死ぬことには、大きく二種類あると思う。自殺と、それ以外の病気などによる死である。自殺というのは、心が主となって、体との連絡を絶つことであり、それ以外は、体が主となって心との連絡が絶たれることである。

心は体の管理を委ねられている。管理がうまくない時に、黄色の信号が心に伝わる。それが病気であろう。黄色から赤に変われば死である。心は体の管理者であることを知らなければならないのである。

ところで、人間は、心と体と霊という三つの部分で構成されているという考え方もある。では、霊とは何か。それは心の中にあり、心と神との関係を表しているようである。だから、霊はオンの場合もあるし、オフの場合もある。

霊がオンであれば、それは心にも体にも影響があり、逆もそうである。だから、霊をオンにしておくということは、心と体の健康のために重要なことである。

体の健康というものは心による。心の健康は霊による。霊は、人間をトータルに見た原点のようなものだからである。

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生涯学習

内観に 短歌技法を 取り入れて
 ふるさと自覚 後世残す

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精神分析

精神の 分析道は 回想で
 幼児体験 先祖は問わぬ

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法事

親戚が 法事で集う 雑談に
 先祖の話 貴重な機会

仏教者 自覚なき者 法事にて
 いかに振舞う 戸惑うばかり

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2007年8月10日 (金)

光と聖

地下鉄・丸の内線に乗っていて、地上に出たら、そこに光があり、大学があった。その大学に入学したというのが、作家・新井満氏である。そんなことを書いていた。

しかし、丸の内線では、もう一個所、わずかではあるが地上に出る。それは御茶の水駅の近くである。そこには聖橋がある。それは湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ意味が込められているとか。

そういえば、新井氏の入学した、あの大学も、聖に関係があった。

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放送大学

放送の 授業は契機 そう思え
 問いの解決 求むプロセス

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先祖のこと

我が系譜 余り知らねど 知ることは
 子孫の務め 自己を知るため

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2007年8月 9日 (木)

資格社会

資格要 社会は四角 なりにけり
 我は部品と 公表の如
 
資格を必要とする、あるいは求める社会は四角くなり、どこかぎすぎすしているようだ。そこでは、私は、こういう部品なんだと社会に公表しているようなものだ。

しかし、人間は部品ではない。部分ではない、全体である。人は人格であり、全体である。人格の全体性の視点の中に、丸い社会の実現が期待されているのではないか。

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2007年8月 8日 (水)

一者の現前

「一者はつかまえようとせざる時到る所に現前している」(『プロティノス』鹿野治助著)

「つかまえようとせざる」は、受動的態度を意味しているのだろう。「求めよ、そうすれば与えられる」という言葉は、つかまえようとする意志を重視しているようでもある。恐らく、最初は「求めよ」であろう。しかし、つかまえた時には、そのような意志が放棄されているのであろう。

プロティノスは絶対他力信仰の極意を語っているように思う。

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導き

「神は、ご自分の御旨を命令として出される前に、その命令を遂行するだけの能力をあらかじめお与えになるのである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

神の導きというのは、人の動機に働きかけるのだと思う。人は、自分の動機を調べて、動く。その動機に、何か価値を感じて、動く。そうすると、そこには、能力が加わる。動機が失われる時、能力も失う。

動機の中に、神の導きを感じるのであれば、その他の必要なものは、自然についてくるのだと思う。

「単純な信仰は、神がご自分の目的を明らかにされるのを待つ。神は必ずそうされるからである」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

神が、人の動機に働きかけるまで、待っていればいい。神の動機への働きかけこそ確かなのであって、それ以外は、自分の欲で動くのだから、確かではない。

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障害

「あらゆる大きな信仰運動において、その運動の原動力となっている力を知らずに、その中に身を投ずる一群の人たちがいるものである。そのような人たちに注意せよ。彼らは、神のために聖別された生涯の圧力に耐えることができない。単なる興奮は、まもなく彼らを離れてゆく。しかも、しっかりした原理をもっていないため、彼らは障害物となり、平和を乱す者となる。彼らが陣営の中に宿り、あるいは彼らの考え方が他の人の心にはっていくと、他の人たちの霊潮は低下する。彼らは世的な政策へと私たちを誘い、彼らがいなければ思いもよらないような方法を暗示し、私たちをエジプトの方へと引いていく」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

内村鑑三の再臨運動にも、このような障害となる人たちがいたのだろう。永遠が時と接触する時、何かが起きる。賛成する人、反対する人。なぜ反対か、この世の、これまでの権利が侵されると思うからである。

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2007年8月 7日 (火)

小泉人気の秘密

小泉人気の秘密は「自民党をぶっ壊す」というセリフにあったのではないだろうか。

これで自民党批判勢力は喜んで、小泉氏に一票を投じたし、また自民党でなければやっていけないという人たちも、逆に不安になって自民党に一票を入れた。

そして、「自民党をぶっ壊す」というセリフは、小泉氏でなければ言えないセリフであった。

不思議な現象であったと思う。

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朝青龍問題

テレビ見て だまされたかと 怒り立ち
 言い分聞かず 断は早しか

診断書の真偽の問題、モンゴル政府からの依頼の件など、断は早すぎたのではないだろうか。

浅野内匠頭に対する将軍綱吉の断の早さを思う。早すぎたのである。禍根を残した。同じようにならないことを祈るのみ。

朝青龍には、朝青龍の言い分があるだろう。その言い分を聞いてから、断を下せばよかったのである。しかし、その言い分を省いてしまった。それは問題ではないだろうか。

朝青龍に、もし、「だました」という意識があるなら、その時は、引退しかないだろう。しかし、そうでなければ、その言い分は正しく生かされなければならないのである。

相撲協会の朝青龍に対する断に、綱吉の内匠頭に対する断を思う。早すぎたという禍根が残るのではないだろうか。

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練獄の研究

渡部昇一さんの、最近読んだ本で、練獄への関心が表明されていた。「練獄の研究」といったテーマの本があれば、興味深いが、余り見かけない。

プロテスタントでは、練獄は否定されている。カトリックでは肯定している。だから、プロテスタントでは、練獄の研究など価値も意味もないテーマであろうし、カトリックとしても、そんな見解がキリスト教徒の一部に見られるテーマをあえて取り上げたがらないのかも知れない。

プロテスタントで練獄の研究をしているなんていうと、あなたの信仰とどういう関係にあるの、といった質問をされるかも知れない。

しかし、日本においてキリスト教は、どうして成長しないのだろうか、という問いに、このテーマは関係しているのではないだろうか。こんな疑問は、日本のキリスト信者であれば、おそらく誰でもが持つに違いないし、このテーマを追求していった文学者もいた。たとえば、芥川龍之介など、キリシタンの宣教師の苦悩を描いている。

かつてキリスト系の新聞の座談会で宗教評論家のS氏は「伸びている新宗教は、立正佼成会にしても、先祖供養があるが、キリスト教には、それがない」という指摘をしたことがある。

先祖供養とは、プロテスタントにはないが、カトリックにある練獄の思想に解決の糸口があるのだろうか。

練獄の思想、あるいは教理と先祖供養とはつながる。練獄の教理とは、キリスト教版の先祖供養のようなものだ。人は葬式仏教を批判の種として使うが、葬式仏教は、それだけ人々の間に浸透していることを意味している。

キリスト教が日本に浸透していくためには、キリスト教版先祖供養である練獄の教理を採用しなければならないのではないだろうか。これは、キリスト教が土着化していくために必要で、まず、ここから始めなければならない。その時、キリスト教は個人の宗教から家の宗教へと拡大されていくのではないか。

プロテスタンティズムはキリスト教を「個人の宗教」とした。これは、宗教に真剣味を与えた。しかし、日本においては、「家の宗教」を考えることも大切だ。そして、先祖供養のないところでは、「家の宗教」はむつかしい。

まあ、研究の動機のようなものを書いたが、「練獄にいる人々を「可哀そうな」(poor)霊魂と呼ぶのは、この人々は自分の力で練獄から脱出することも苦しみを緩和することもできず、地上にいる信者の祈りと善業に頼らなければならないからである」(『カトリック小事典』325頁)と書かれている。これは何を意味しているのだろうか。

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2007年8月 5日 (日)

振り込めサギ

助けてと 言いつつ騙す 人の果は
 やがて身に落つ 今に見ておれ

助けてと 本心で言う そり言葉
 真に受ける人 誰もいないぞ

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民主主義

民主主義 政治理念に 選択し
 罪の分散 新たな課題

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病また 大切なもの 示すなら
 その意味果たし やがては消える

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写生

写生とは 対象化する 認識で
 実存写す それは無理かと

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愛と認識

対象化 認識のもと 愛は別
 対象化捨て 一致の幸を

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2007年8月 4日 (土)

暗さ

「悲劇をも含めて「あらゆる芸術は、アダム・イブの堕落から由来している」(ポール・ヴァレリー)。人間の生み出す最も尊きもの美はしきものと雖も、その究極的な相に於ては、依然として暗いのである」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

芸術の本質的な暗さは、どこかに明るさがあることによってのみ可能なのではないだろうか。この明るさを知らない時、芸術家は犠牲者である。

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会津

武家屋敷 白虎隊あり 会津の地
 時代転換 壮烈に死す

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2007年8月 3日 (金)

人間関係

「人間像のたたかいは、われわれにおいては、われわれ自身にかかわる問題である。われわれは、個々の人間において出会う人間像に対して、ときには嫌悪を、ときには好感をもつ。まるで模範像と対立像であるかのように、われわれはそれらの人間像を手がかりとして自分の方向を定める」(『哲学の学校』カール・ヤスパース著)

人間関係の目的は、自己認識にあるのだ、と言っているように思える。少なくとも、自己認識は、人間関係の印象の反省から生まれるのではないだろうか。しかし、その印象の「なぜ」を問われると、うまく説明ができない。

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特権

「人生のすべてのことについて神に語るのは私たちの特権である」(『信仰の高嶺めざして』F.B.マイヤー著)

「人生のすべて」と言われるのであれば、われわれは余り、神に語っていないかも知れない。だから、自分たちの特権を知らないのかも知れない。

「神に語る」とはどういうことか、誰が教えてくれるのだろうか。なかなか難しいことである、と思うけれど。

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2007年8月 2日 (木)

サルトルとひばりさん

美空ひばりさんの言葉に「今日の我に明日は勝つ」という言葉があります。努力の人生であったという印象を強く感じさせる言葉です。

この言葉にサルトルを思いました。サルトルも、同じように言うことができたのではないでしょうか。実存主義の言葉として。

しかし、キリスト教的に見れば、これはペラギウス主義、自力救済主義の言葉であるかも知れません。

実存主義への肯定と否定、それはアウグスチヌス流に言えば、二つの国が同じ歴史の中を進んでいるからなのでしょう。

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自己否定と自己肯定

大学紛争の時、「一点突破・全面展開」という言葉があった。また自己否定が強調された。これらは、キリスト教の真理に根ざしていると思う。

自己否定は、絶対他力に通じる救いの道であり、救いという狭い道を通った人は、そこに全面展開される神の景色を眺めることができるであろう。それは否定を通しての肯定である。従って、自己否定と自己肯定は、こうしてからまりあっていると思われる。『神の痛みの神学』(北森嘉蔵著)には、こんな個所がある。

「ひとは神そのものに於ても自己追求的愛によって自分自身のものを求める」

「肉の念いは、万物にまさって、神にさえもまさって、自分自身を愛する」

「神を愛するという事は自分自身を憎むという事である」

「義人とは要するに自己自身の糾弾者である」

「ルッターが言える如く「愛するとは自己を憎むことである」」

これらは、本来的自己と罪の影響下にある自己とを区別しないと、分からなくなる。自己否定されるべきは、「
罪の影響下にある自己」であって、「本来的自己」ではない。本来的自己は肯定されなければならない。しかし、自己という言葉しかない時には、どういう言い方になるのだろうか。絶対矛盾的自己同一であろうか。自己否定は自己肯定に通じているのである。

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仕事

我が内に 永遠(とわ)の仕事が あるならば
 転職しても 傷はつかずと

我が内に 永遠(とわ)の仕事が ないならば
 外の仕事の 機械・歯車

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2007年8月 1日 (水)

梅雨明け

梅雨明けが なくては夏は 終わらない
 あればやがては 夏も終わらん
 
8月1日、東京は梅雨明けだそうです。夏の終わりが楽しみです。深夜便の歌では、そんな歌が歌われています。

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大宮八幡宮

大宮の 八幡宮の 木々豊か
 天然由来 自然の教え

吸う空気 何とおいしい 心まで
 癒やされるよう 自然の教え

ハーン知る 日本の良さの 片鱗が
 ここにあるかと そよ風の中

東京都杉並区に大宮八幡宮があります。自然が豊かです。「天然」は、自然の意味、「自然」はここでは「人為」の対極を意味します。

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一者

「一者は存在ではない。一者は万物に存在を供するものではあるが、自身は決して存在ではない。むしろ一者は「実在の彼岸」のものとして、一般に有ではない。それはある性質あるものでもなければ、分量あるものでもない。併しこの様に言っても何もないのではなく、実は一者は「万物の根源」として無限に豊富なる内容を有つものである。そしてこの故にこそ、あの様なものとか、この様なものとか言う様な規定や限定ができないのである。一者は限定なきものである。併し無限定とは分量や数の尽くし難い為なのではなく、万物を生ぜしめる「力」の把握し難きことに依ってなのである。一者は「万物の力」である。それは一切をつくっても、自分に止り、減ずることのない力である」(『プロティノス』鹿野治助著)

こういう説明をされて、プロティノスは一者という言葉で神について語っていると考えても、そんなに的外れなことではないと思う。

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