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2007年8月13日 (月)

痛み

「人間は(善や信仰なくとも)痛みそのものに於て神と結合し、(悪や不信なくとも)痛みなき事に於て神との断絶を激化するのである」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

この痛みとは何だろうか。次のような個所を連想する。

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ23・37)

「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(ローマ9・3)

恐らく、痛みとはただ祈るしかない、そんな境地だあろう。しかし、「このただ祈るのみ」ということが重要である。

「善や信仰なくとも」と著者は言う。「善」はカトリック、「信仰」はプロテスタントを意味しているのだろうか。しかし、それらはまだ不十分と言いたいのかも知れない。祈りは信仰を含むのだし、善の前提である。ということは、真実の祈りは「痛み」を前提としている、と言いたいのかも知れない。

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コメント

「人間の痛みが最高度に達するのは、親がその愛する子を苦みの中に送り遂にこれを死なしめる時である。この痛みの切実さの故に、神の痛みに於ても「父と子」の関係が取り上げられたのである。神の痛みに於て「父と子」の関係が取り上げられた時、そこでは人間的親子関係につきまとう罪性は取り残され、ただその切実さのみが取り上げられたのである」(『神の痛みの神学』北森嘉蔵著)

痛みのおける「切実さ」を注目している。祈りとは、この切実さがなければいけないのだろう。従って、公の祈りと共に、自分自身の祈りもまた必要なのである。自分自身の祈りとは、絶えざる祈りであり、心の祈りであるだろう。

投稿: | 2007年8月13日 (月) 22時07分

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