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2007年8月25日 (土)

神の子

8月3日から5日まで、横浜市神奈川区のかながわ県民センターで、第14回AIDS文化フォーラムin横浜が行われ、2日目の「宗教とエイズを考える」分科会で、幸田和生・カトリック東京大司教区補佐司教が話をされた。

『キリスト新聞』9月1日号によると、同司教は、「すべての人は神の子であり、お互いに兄弟姉妹」と語ったという。これ自身は、別に問題ない発言のように思えるのだが、少し、内容を確定しようとすると、あいまいさが残るかも知れない。

一体、「すべての人は神の子」というのは、どういう意味なのだろうか。

すべての人は神によって創造され、神の像を持っている、という意味であるなら、そうだろう。そして、それ以外には、「すべての人は神の子」という言葉を解釈することはできない。しかし、聖書は、「神の子」という言葉を、そのようには使っていないのである。

聖書では、「神の子」は、次のように使われている。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ8・15)

「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(第一コリント1・9)

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(ガラテヤ3・26)

「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1・5)

要するに、新約聖書では、「神の子」という言葉は信徒に対する言葉として使われている。すべての人に向けて使われてはいない。そして、「お互いに兄弟姉妹」というのも、信徒の間の言葉であれば、そう言えるであろうが、全人類を相手に語られているとしたら、聖書の用語ではないのではないだろうか。

あるいは、「無名のキリスト者」という包括主義の中で、他宗教者も、信仰を持たない人も、すべてを、この言葉に包括する意思の表明なのであろうか。

私は、「神の子」という言葉を安易に使うべきではないと思う。

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コメント

生長の家でも、「人間は皆、神の子」といった教えがあったように思います。

投稿: | 2007年8月27日 (月) 15時04分

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