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2007年8月 7日 (火)

練獄の研究

渡部昇一さんの、最近読んだ本で、練獄への関心が表明されていた。「練獄の研究」といったテーマの本があれば、興味深いが、余り見かけない。

プロテスタントでは、練獄は否定されている。カトリックでは肯定している。だから、プロテスタントでは、練獄の研究など価値も意味もないテーマであろうし、カトリックとしても、そんな見解がキリスト教徒の一部に見られるテーマをあえて取り上げたがらないのかも知れない。

プロテスタントで練獄の研究をしているなんていうと、あなたの信仰とどういう関係にあるの、といった質問をされるかも知れない。

しかし、日本においてキリスト教は、どうして成長しないのだろうか、という問いに、このテーマは関係しているのではないだろうか。こんな疑問は、日本のキリスト信者であれば、おそらく誰でもが持つに違いないし、このテーマを追求していった文学者もいた。たとえば、芥川龍之介など、キリシタンの宣教師の苦悩を描いている。

かつてキリスト系の新聞の座談会で宗教評論家のS氏は「伸びている新宗教は、立正佼成会にしても、先祖供養があるが、キリスト教には、それがない」という指摘をしたことがある。

先祖供養とは、プロテスタントにはないが、カトリックにある練獄の思想に解決の糸口があるのだろうか。

練獄の思想、あるいは教理と先祖供養とはつながる。練獄の教理とは、キリスト教版の先祖供養のようなものだ。人は葬式仏教を批判の種として使うが、葬式仏教は、それだけ人々の間に浸透していることを意味している。

キリスト教が日本に浸透していくためには、キリスト教版先祖供養である練獄の教理を採用しなければならないのではないだろうか。これは、キリスト教が土着化していくために必要で、まず、ここから始めなければならない。その時、キリスト教は個人の宗教から家の宗教へと拡大されていくのではないか。

プロテスタンティズムはキリスト教を「個人の宗教」とした。これは、宗教に真剣味を与えた。しかし、日本においては、「家の宗教」を考えることも大切だ。そして、先祖供養のないところでは、「家の宗教」はむつかしい。

まあ、研究の動機のようなものを書いたが、「練獄にいる人々を「可哀そうな」(poor)霊魂と呼ぶのは、この人々は自分の力で練獄から脱出することも苦しみを緩和することもできず、地上にいる信者の祈りと善業に頼らなければならないからである」(『カトリック小事典』325頁)と書かれている。これは何を意味しているのだろうか。

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