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2007年8月31日 (金)

説明責任

最近、説明責任という言葉をよく聞く。最近ではなく、そうとう以前から使われている言葉である。

自分の行為に対して、説明して欲しいというのだが、そこでは、謝罪が必要か、それとも、自分の正義を語るのか、説明責任の行使には法廷に立たされる思いがするだろう。

人の行為は裁かれるのである。説明責任という言葉で、現代の日本人は、人の行為は裁かれるのだということを教えられているのかも知れない。

説明責任を果たすということは、神の前に出るということと関係しているようにも思える。

些細なことにも説明責任を果たす姿勢は、それだけ神の目の前にいる自分を意識していることにつながるのであろう。

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コメント

例えば、カントは、こう言っている。

「汝の行為の格率が汝の意志によってあたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」

「意志がその格率を通じて己れ自身を普遍立法的と見なしうるように行為せよ」

要するに、自分の行為、意志というものが普遍的なものになるようにせよ、ということ。

この「普遍的」の部分を、「神の意志に従うように」とも言い換えられるだろう。そして、その実践が説明責任に当ると思う。

投稿: | 2007年9月 1日 (土) 15時55分

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