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2007年8月20日 (月)

聖餐の瞑想

プロテスタントでは聖餐、カトリックではミサ聖祭と呼ばれているものがある。キリストの最後の晩餐を、その起源とする。しかし、そのずっと前にも思いを馳せるべきではないのだろうか。

それはエデンの園である。

「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(創世記2・9)

原罪とは、「善悪の知識の木」から食べたことを意味している。そして、「命の木」から食べることができなくなった。そこから悪が広がってきた。人は、その悪の前に無力である。

そこで思う。聖餐、あるいはミサというものの連想は、この「命の木」から食べることにつなげてもいいのではないだろうか。

カトリックでは、信徒使徒職という言葉がある。そこには、司祭だけでなく、信徒も福音宣教のわざに参加すべきという思いがある。聖書には、大宣教命令と文化命令があるといわれる。これはプロテスタント的言い方である。

大宣教命令とは、新約聖書にある、文字通り福音を伝えることであり、伝道者の、あるいは献身者のわざである。文化命令とは、旧約聖書の冒頭にある「地を従わせよ」(創世記1・28)というわざである。

伝道者のわざは第一に福音宣教である。そこで信徒も、そうなのだ、と言っていいのだろうか。信徒の使命は文化命令なのだ、とは言えないのだろうか。

福音とは、追放された楽園への回帰である。いや、少し違う。新しい楽園には、「善悪の知識の木」はない。ただ、「命の木」があるだけである。そして、聖餐ごとに「命の木」から食べて、文化命令に励む。信徒の根本意識は、それでいいのではないのだろうか。

聖餐、ミサというものは、その原点である最後の晩餐への瞑想を誘うだけではなくして、さらに、その奥にある追放された楽園に意識を連れ戻す役割りもまたあるのではないだろうか。

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コメント

回復されたエデンの園は、以前の園以上である。そこには「善悪の知識の木」がないから。原罪は、後悔を引き起こすものであるが、その克服は、もっとよい園への招待である。だから、この認識の中で、原罪もはじめて克服されるのだと言えよう。

投稿: | 2007年8月20日 (月) 18時46分

吉満義彦は晩年、「キリスト教はオプティミズム」といったことがある。最初、罪の現実を何と甘く考えているのだろうか、と思った。しかし、新生して聖化の道を歩む信徒たちは、その意識の中では回復された楽園、そして、もっとよい楽園の中を進んでいるのである。そう思う時、吉満の言葉が、「その通り」と思えるようになった。

投稿: | 2007年8月20日 (月) 20時05分

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