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2007年8月28日 (火)

自然神学

「聖パウロは、『ローマ人への手紙』(1.19-20)において、神の永遠の能力と神性とが被造諸物を見ることによって直接的に知られることができると説いて、ギリシア人における神の純粋に合理的な認識の可能性を含意的に主張しているが、かれはそれによって、のちにキリスト教の内部に起るべきすべての自然神学の基礎をすえた。
(同じ考え方は、『知恵の書』(13.1)に見出され、後にまた教皇レオ13世によって、回章の中に引かれている)」(『中世哲学の精神』上、E・ジルソン著、服部英次郎訳、38ページ)

自然神学の権利を主張しているのはパウロなのだということである。バルトは自然神学を否定したと言われているが、この個所をどう解釈しているのだろうか。

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コメント

バルトは広い意味での改革派の神学者であった。しかし、改革派の中で生まれたウェストミンスター大教理問答は、自然神学を是認している。

「問二 神の存在は、どのようにしてわかるか。
 答 人間のうちの本性の光そのものと、神のみわざが、神の存在を明らかに示す。しかし、神のみ言葉とみたまのみが、人間の救いのために、十分に、また有効に神を啓示する」
(ウェストミンスター大教理問答)

要するに、「神の存在」は、啓示なしでも、すべての人に知られる、というのである。しかし、人間の救いに関しては、啓示が、すなわち、神のみ言葉とみたま(聖書と聖霊)という特別啓示が必要だというのである。

ということは、改革派の神学は自然神学を認めているといえるのではないだろうか。

投稿: | 2007年9月 3日 (月) 15時53分

★ 改革派神学は自然神学を認めていません。

一般啓示は「知らなかった」という人間の弁解を封じるためにあるのであって、ロマ1章は自然神学の容認として読むことをしていません。

むしろ、神を「知っている」のに、偶像礼拝に走る人間の罪の現実、その罪に対する神の処罰の正当性を語っているものと、ロマ1章を読みます。

投稿: 木人 | 2007年9月17日 (月) 09時02分

>★ 改革派神学は自然神学を認めていません。

そうですか。

ウェストミンスター大教理問答の「問2」に関しては、トマス・アクィナスは、全く異論はないと思います。私も、その通りであると思っています。

投稿: toma | 2007年9月17日 (月) 16時45分

管理人さんは「自然神学」と「自然啓示」とを混同しておられるようです。改革派神学においては「自然啓示」と「自然神学」とは区別されます。改革派は基本的に前者を認めるが後者は認めません。問題箇所のローマ1章19~20節は「自然啓示」のテキストであり「自然神学」を肯定するものではないのです。カール・バルトの誤りは、この両者の区別を知りながらも「キリスト論的集中」といわれる方法論のため、両者とも斥けたことにあります。これが行き過ぎだったのです。

投稿: 本人 | 2014年9月29日 (月) 22時31分

★管理人さんは「自然神学」と「自然啓示」とを混同しておられるようです。改革派神学においては「自然啓示」と「自然神学」とは区別されます。改革派は基本的に前者を認めるが後者は認めません。

そうですか。ありがとうございます。当方、改革派神学をよく分かっていないようですね。改革派神学との出会いは、『近代の不安とキリスト教信仰』というベルカワーの本でした。印象に残りました。ところで、ベルカワーの文献は、それ以外に知りません。何かありますか。ベルカワーの評価なども関心があります。バルト評価をめぐって、改革派の中で批判されたかも知れないと思うことがあります。

投稿: | 2014年11月 9日 (日) 13時28分

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