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2007年9月 2日 (日)

「たとえ……」

「この人類と神との唯一の掛け橋イエスス・キリストを通して、すべての人間には、罪の家族から抜け出で、キリストの家族へ入る可能性が与えられた。したがって、たとえキリストの名を知らない者であっても、この贖われた人間本性に従って、忠実に「人の道」を歩むならば、その人は現実としてキリストの掛け橋を渡っているのである」(『創造と救い-人間論・教会論-』マウルス・ハインリッヒ著、福田勤編著、サンパウロ、79頁)

「キリストの名を知らない者」というのは福音を聞いたことのない人という意味であろう。その人たちも救われる、という意味なのだろうか。そう受け止める人がいても、仕方ない書き方であろう。

「無名のキリスト者」というのは、こういう人を指すのだろうか。

福音を知らないでも、回心=新生は可能なのだろうか。

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コメント

「問60 福音を聞いたことがなく、従ってイエス・キリストを知らず、彼を信じない人々は、本性の光による彼らの生活によって、救われることができるか。
 答 福音を聞いたことがなく、イエス・キリストを知らず、彼を信じない人々は、本性の光や自分の告白するその宗教のおきてに従って生活を形成するのに、どれほど熱心であっても、救われることはできない。また、キリストおひとりのほか、他の何物にも彼らの救いはない。キリストはその体なる教会のみの救い主であられる」(「ウェストミンスター大教理問題」)

ここでは、「無名のキリスト者」的発想を否定していると思われる。もっとも、「ウェストミンスター大教理問題」はカルビン系教会の信条で、同信仰告白「第25章 教会について」では、ローマ教会に対する敵対意識も表明されている。

普通、教派的信仰教育では、こういう比較はしないであろう。しかし、逆に、最も必要なのが、教派を超えた信仰の比較である。そういうものは、こうしたインターネットでしか出来ないでのではないだろうか。

投稿: | 2007年9月 6日 (木) 16時55分

ウェストミンスター信仰告白には、「第10章、有効召命について」で、次のように書かれている(新教新書『ウェストミンスター信仰基準』41頁)

「3 幼少のうちに死ぬ選ばれた幼児は、いつでも、どこでも、どのようにでも、自らよしとされるままに働かれるみたまを通して、キリストにより、再生させられ、救われる。み言葉の宣教で外的に召されることのできない他の選ばれた人もみな、同様である」

ここでは、幼児という言葉で、自覚的回心にない人もまた救われる可能性があるといっているのではないだろうか。また、後半では、福音を聞く機会のない人でも救われるといっているのではないだろうか。

そこには選ばれた人は必ず救われる、という主張がある。しかし、その選びは人には隠されている。であれば、「無名のキリスト者」の発想が、ここにはあるというべきではないのだろうか。

投稿: | 2007年9月 7日 (金) 21時28分

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