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2007年9月 7日 (金)

罪の克服

「ウェストミンスター信仰告白」には、罪について、「第6章 人間の堕落と罪、およびその罰について」の中に、こんなふうに書かれている(新教新書『ウェストミンスター信仰基準』)。

「1 わたしたちの始祖は、サタンの悪巧みと誘惑にそそのかされて、禁断の木の実を食べて罪を犯した。神は、彼らのこの罪を、ご自身の賢いきよい計画によって、ご自身の栄光に役立てる目的をもって、許容することをよしとされた」(25頁)

前半部分に関しては、何も問題はないだろうと思う。後半に関心がある。

神は、人の罪を許容した。そこには、人の自由意志を認めている、という理解があると思う。そして、人の犯す罪の原因は神にはないという主張も見られる。「許容」という言葉の中に、神の「全知全能」と人間の「自由」との接点があるように思う。

宗教改革当初、人間の自由意志に関して論争があったが、人間には自由意志がある、と認めることが現実的であろう。しかし、その自由意志によって救いが達成されるという時の自力救済的思考を、ルターは拒否したとみるべきではないのだろうか。ペラギウス主義の否定であれば、それは当然である。しかし、その言い方が、自由意志そのものの否定を意味しているとなると、それは現実的ではない。

「ウェストミンスター信仰告白」には、そういう議論を踏まえての言い方があるように思う。

さて、罪を犯した人の場合は、当然、罰の影響としての後悔が来るのであるが、その中で、後悔が克服された時、初めて、罪の克服といえるのではないだろうか。

後悔の克服、それは、罪を犯したにもかかわらず、それが、神の「栄光に役立てる目的」を持っていることを知った時ではないだろうか。その「目的」を知って、初めて、罪の罰の反映である後悔は克服されたといえるのではないであろうか。

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