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2007年9月26日 (水)

苦しみへの召命

苦しもう 神に仕える 道なれば
 祈りは純化 救いは波及

自分の苦しみが、どれほど大きいといっても、十字架のイエスが、「なぜ、自分を捨てたのか」と、父と呼んだ神に言った言葉の背後にある苦しみに比べれば、いかほどのこともない、と思う。

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コメント

西田幾多郎は、絶対無とか、絶対矛盾的自己同一という言葉を使ったが、この言葉の意味しているのは、十字架の上のイエスなのではないかと思う時がある。父から捨てられた子、しかも、両者とも神であることを思う時、絶対矛盾的自己同一という言葉でしか、言い表せない事態が、そこにないだろうか。

それはまた、絶対無の原点のようにも思える。絶対無は、単に有(存在)がない、という意味ではなく、存在を吸収して、新たな存在を生み出していくという働きをさしているように思える。色即是空から空即是色への転換点に、絶対無があるように思える。それは罪の処理とも関係している。

絶対無は、あたかも真空のように、罪を、どんな罪をも吸い込んでしまう働きをしている。そんなイメージを、あの十字架上のイエスの言葉につなげている。だから、あの言葉は敗北の言葉ではない。絶対矛盾的自己同一の事態という究極の痛みを表したものであり、その結果、生み出された絶対無が、人類浄化の要なのだという理解である。

神学的には、法律的に罪が許されたという理解が教えられてきたかも知れないが、日本人にとっては、ほこりでもある罪が掃除され、きれいになったというイメージでもいいかも知れない。毎日、風呂に入り、清潔好きの日本人には、是非、心の中も掃除して欲しいと思う。そういうメッセージがあってもいいのではないだろうか。

投稿: | 2007年9月30日 (日) 22時49分

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