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2007年9月13日 (木)

亀井氏の心境

亀井勝一郎という評論家がいた。1907年生まれで、1966年没であるから、59年の生涯であった。還暦前に死去というのは、今の感覚では、少し若かったというものだろう。

キリスト教にも関心があったようで、教えれるところがあった。なぜ、関心があったのだろうか。こんな個所がある。

「亀井 私は親鸞の教に直結しようとしている在家仏教徒なのですが、今日の本願寺はどうしても全然認められません。私の家の菩提寺は本願寺であり、お墓参りという普通の習慣的なことはやりますが、しかし人間形成の上で何か強いものをお寺が与えるかというと、それは全くない。とくに私などあきたりないと思うのは、明治以来、近代精神というものとの対決が全然なかったということ、これが現代仏教の致命傷ではなかったかと思うのです。ですから自分が仏教徒でありながらキリスト教の方に--私の青年時代からそうですが、キリスト教の方になぜ心をひかれたかというと、キリスト教の中には思想的対決の持続性がある。コムミュニズムとの対決もあれば、科学との対決もあり、要するに「近代」というものと格闘して来た歴史があって、日本ではたとえ不充分でも、そういう点に私など心をひかれます。仏教の性格にもよりますが、明治以後少なくとも仏教徒は自分の破滅を賭してでも、「ヨーロッパ近代」と真正面から対決すべきであった。この点では殆ど無抵抗でした。全く別のところで、因習的に続いてきただけですから」(『近代日本とキリスト教--明治篇--』基督教学徒兄弟団発行、7-8頁)

これは、仏教には寺というものがあるけれども、その寺は人間形成に対して、どういう役割りがあったか、という北森嘉蔵氏の質問に対する、亀井氏の答えである。

亀井氏の心境は、よく分かる気がする。しかし、現在は、仏教とキリスト教は、この点では逆転しているような気もする。

そして、これまで、カトリックよりもプロテスタントに日本の青年たちの関心が向いたのは、亀井氏の心境とだぶるような面があるような気もする。

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