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2007年10月31日 (水)

西洋憧憬

西洋に 憧れし時 過ぎ去りて
 なおそに生きる 我を見つめん

西洋の 範は衰え 東洋の
 心見直す 流れもありて

原理知る 心があれば 東西の
 文化を超えて 対話の絆

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2007年10月29日 (月)

観音さま

通称「観音さま」は、正式には観世音菩薩という。世間の出来事を自在に観察し、救いを求める者の心に応じて、千変万化するといわれる。

日本では、よく知られた菩薩である。この観音の教えを説く観音経は「妙法蓮華経」観世音菩薩普門品(ふもんぼん)の別称なのだという。

立正佼成会に普門館というホールがあるけれど、この観音経の正式名称からとったものなのだろう。

江戸時代、マリア観音というものがあった。迫害の中で、キリシタンたちが、信仰を守るために、仏教の観音への信仰を装って、実はキリスト教のマリアに祈りを捧げていた。しかし、あるいは、信者の心の中では、両者は習合して別に問題を感じていなかったのかも知れない。観音は救いを求める者の心に応じて、「千変万化する」と言われるからである。

日本では、在家の巨大仏教教団の中で、よく知られているものには日蓮宗系があるけれども、観音経が法華経の中にあるということで、何か納得できるようなものがある。

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典礼運動管見

典礼とはカトリック教会で主に使われている言葉である。プロテスタント教会では礼典という言葉が一般的に使われている。この運動の中では、礼拝の形が考えられる。

体験的な面を重視する教派では、この面の関心は余り大きくはないだろう。礼典主義者といって、外面的な宗教儀式への参加を重視しているが、内面的なものに欠けている場合、否定的に使われる場合もある。

恐らく、この典礼運動のコンテキストが分からない場合、無関心になりやすい。信徒が多数の場合には、外面的な規律は必要となる。しかし、日本の場合のように少数の場合、どれほどの意味があるのだろうか。

バチカンのお達しというものは、極東の少数信徒の立場に合わせて送られてくるものではない。極東の少数派の信徒としては、このお達しで、世界基準では、どんな関心があるのか、それを眺めるのは意味があると思う。

しかし、関心を高める方法がないわけではない。それは、やはりコンテキストの再考から始まる。

典礼運動というものは聖化論の中に位置づけられねばならない。そして、生活改革運動でなければならない。聖化論、生活改革運動という言葉に典礼運動が有機的に結びつくのであれば、それはもっと信徒の関心を高めるのであろう。

バチカンの方を見るのはいい。しかし、自分たちの生きている社会を見なくなれば、第二バチカンの精神に反することになるだろう。

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神谷光信さんの新著

文芸評論の分野で意欲的な作品を発表されている神谷光信さんが、11月、新著を発表されます。「須賀敦子と9人のレリギオ」(日外アソシエーツ発行)という表題です。副題は「カトリシズムと昭和の精神史」となっています。

取り上げられている人物は、犬養道子、皇后陛下、村上陽一郎、井上洋治、小川国夫、小野寺功、高田博厚、芹沢光治良、岩下壮一です。「昭和知識人におけるカトリシズムの内実を問う意欲的長編評論」という説明もあります。

半澤孝麿さんの『近代日本のカトリシズム』(みすず書房)が出た時のような衝撃が走るような気がします。

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2007年10月26日 (金)

自殺を考える

日本人には自殺者が多いという。自殺願望者は、もっと多いということだろう。

しかし、人の死について、その人たちが真剣に考えているとは思えない。ただ、自分の現在の環境から抜け出たいという思いが、安易に自殺願望に走らせているのではないだろうか。

自殺者に意味があるとしたら、人には死があるということを知らせているということかも知れない。しかし、これらは、誰でも知っている。ただ、考えても仕方のないこととして、その日が、ある日、突然、あるいは、たびたびの予告の後に来るのを、どうすることもできずに、待っているだけではないだろうか。

思いが死に向かっているということは、悪いことではない。ただ、そこで、願わしいことは、ただ短絡的に死にたいと言葉に出すことではなくて、「死の思想」を構想したらいかがであろうか。それは、恐らく、万人のためでもある。それから死んでも遅くはないと思う。

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救い

教会の 外に救いは ないと言い
 他宗教にも 救いありとも

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2007年10月24日 (水)

三宝

聖徳太子の「十七条の憲法」の第二項に、こんな言葉がある。

「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり」

これは、もちろん、仏教の話である。仏は仏陀、法は仏法、僧は僧侶(教団)であろうか。注解(『日本の名著 聖徳太子』中央公論社)の中には、「三宝とはさとれる仏と、理法と、人びとのつどいとのことである」とある。

キリスト教に転用すれば、これはキリストと福音と教会を指しているのではないだろうか。この三者の分離できない関係を思う時、何か新しい希望が我らの心に湧いてくるのを覚える。

人生の目標の確定、その方法の確定、そして、共同体の形成、それらが人生の中で、必要不可欠なことである。そういう意味なのだろうと思う。

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出家の動機

仏陀の出家の動機を思う時、そこにニヒリズムを感じる。その点では、大いに共鳴するものを感じる。

聖書は原罪によって死が入ってきたという。しかし、人類の先祖といわれるアダムとエバが、肉体の死を経験しなかったとは思えない。ということは、その死とは、肉体の死ではない、別の死ではなかったろうか。死という言葉に二義性があるのではないだろうか。

その死(肉体の死ではない)を感じる時、そこにニヒリズムがあるのだとしたら、仏陀の出家の動機は万人の共鳴するところとなるのではないだろうか。

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2007年10月22日 (月)

偶像

偶像というのは、究極と関係づけられていて、そこから価値を引き出しているが、究極への道しるべでなくして、そのものが究極と見なされるところに生まれるのではないだろうか。

思惟については、こう言われる。

「思惟の対象なしには思惟はあり得ない。従って対象あってのみ思惟は完全なのである」(『プロティノス』鹿野治助著)

その対象は、時に、何かを指していることがある。そんな時、その何かに思惟は向かう。しかし、その何かに向かわないで、とどまる時、「宗教の風景化」が始まる。

「感覚的認識や分別的認識に於いては、その対象は外にあるから、把握されたものは「影像」で事物そのものではない」(『プロティノス』鹿野治助著)というが、対象は「事物そのもの」との関係の中で、「影像」となる。

一応、外の対象を通して、「事物そのもの」へという道が通常の道である。しかし、一度、この道を通ったならば、「事物そのもの」の直接的経験の道があるのではないだろうか。対象が外にあるのではなくて、内にあるという事態の転換もありうるのではないだろうか。そこには、偶像の出る幕はない。

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日本のキリスト教

人間の歴史というものは、ある意味で、原罪から始まっている。

その歴史を是認して、その上に発展させようとしているのが西洋的指向であり、その逆が日本的指向ではないだろうか。

そして、日本に入ってきているキリスト教は、その西洋的指向を前提としているのであれば、日本でキリスト教が浸透していかない理由が、そこにあるのかも知れない。

しかし、そのようなことを真剣に考えようとしないところで、宣教が指向されているかも知れない。それは、余り関心を呼ばないだろう。

日本的宗教性というものは、存在にあるのではなくて、その逆である。そのような宗教性の中で、キリスト教福音が捉えなおされるのであれば、それはこの地で受け入れられるものとなるだろう。

そういうキリスト教を模索し、構築していかなければならないと思う。

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2007年10月21日 (日)

急変説

内村鑑三は『代表的日本人』の中で、こんなことを言っています。

「宗教は人間の最も主たる関心事である。宗教なき人間は考えることができない」

私も同感です。しかし、別の個所では、こうも言います。

「一国民は言うまでもなく、一人の人間と雖も、一日にて回心せしめらるべきものと信ずる勿れ」

これは、どうなんでしょうか。回心の定義の問題かも知れませんが、回心は「瞬間的」「即座」という人たちもいます。

内村鑑三は、その著『求安録』で、こんなことを言っています。

「而して余輩は思考の結果として、観察の結果として、心霊上実験の結果として、宗教上に於ても急変説に価値を置かざるものなり」

「真理は余輩の呼吸する空気の如く、余輩の日常飲用する水の如く、其効果は確固なると同時に其働きは静かにして遅きものなり、真理は劇薬にあらざるなり」

彼が再臨運動を共に行ったホーリネス教会の中田重治は、むしろ「急変説」を主張したのではないでしょうか。
新生・聖化・神癒・再臨という四重の福音が中田の立場でしたが、新生は急変ではないでしょうか。

しかし聖化は、内村の言うように「其働きは静かにして遅きもの」でしょう。だから、内村の言うことも間違いではないけれど、それがすべてと言えば、新生なくして聖化が起きるだろうか、という問いが残るかも知れません。

オズワルド・J・スミスというカナダ・トロントにあるピープルス・チャーチの牧師がおりました。プロテスタント宣教百年の時に来日したそうです。教会とキリスト者に向けて挑戦的な言葉を残しています。その中に、こんな言葉があります。

「救いは瞬時の経験であり、またそうでなければなりません。誕生は常に瞬時の出来事です。新生も瞬時の経験でなければなりません。新生に至るまでに長い年月を要するかも知れません。しかし新生は急に起こります。それは瞬時の経験です。漸次的回心というようなことはありません」(『汝の首をあげよ』)

私も、そう思います。

C.G.フィニー、サンダーシング、パウロなど、その回心体験はよく知られていますが、みな瞬間的だったのではないでしょうか。

パウロの回心体験は、聖書(使徒言行録22章)にしるされています。

「回心に続いての十数年は、パウロにとって、大体に於て平穏に流れたように見える」と、『パウロ』(波多野精一著)は書いていますが、その間に、自分の宗教的信念体系をじっくりと反省したのではないでしょうか。もちろん、回心を中心として。

そして、どうなったのか。『パウロ』は、こう書いています。

「急激なる回心、生のあざやかなる方向転換は勢い彼の思想に著しき二元論的傾向を与えた。個人の生涯ばかりか人類の歴史も、真の生の源であるキリストによって載然と二つの期に分たれ、それに応じて世界の存在も、二種類の相反する力の活動と緊張とを示す、とパウロは考えた」

「霊の働きに於て弟子達は、超越的なるもの将来的のもの、神と神の国とを、内在的のもの現在的のものとして、体験したのである」」

おそらく、この霊の体験がキリスト教信仰の原点であると、私は考えています。

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2007年10月19日 (金)

神道的感性

日本人 神道の中 生きてきて
 自覚なくとも 世間教える

世間様 共同体の 重視かな
 外に出られぬ 島国意識

何事も なく過ぎし日を 良き日とぞ
 思う感性 神道的か

事がある よくない事と 思うのは
 日本人には 一般的だ

神道的意識の中には、聖霊の神学を志向する要素があるのではないだろうか。クエーカー的・体験的・実感的宗教が日本人にも一番合うのではないだろうか。

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くもの巣

くもの巣の 社会の中を くぐり抜く
 わが身小さく あれば自由に

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マスコミ

マスコミは 有事ほしがり 追いかける
 悪の奉仕 因求むれども

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有事

平和とは無事ということである。無事とは有事ではないということ。事が起きれば、事と関わり、事を消滅させ、無事を作ること。平和運動の狙いが、そこにある。

しかし、一方、社会の進歩に適応しないというのも、「有事」ではないのか。いや「有事予備軍」と言うべきかも知れない。

無事はよいこと、有事は悪いこと。そんな意識が日本人にある。人間の限界状況、その危機を知らせるための有事も人為的であれば、それは理解されないのではないだろうか。

警告の ためと称して 犯罪の
 因となれるを 是か非かと問う

もちろん、非である。しかし、複雑な問題が含まれている。大学紛争の時にも、そんな動機がなかっただろうか。

平凡の力を、まざまざと見せ付けられた記憶がある。小津安二郎の世界である。

聖霊と 共なる凡は その外の
 非凡にまさる 凡もまたよし
 
 

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2007年10月17日 (水)

世間虚仮

世間虚仮 太子の言葉 仏教の
 真髄語る 彼岸目指して

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解脱

天上も 地獄も共に 同じなり
 解脱を求む 天上でなく

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2007年10月15日 (月)

謝罪会見

「世間をお騒がせして申し訳ありませんでした」

こんな言葉が謝罪会見で、よく言われる。

これは神道的発想なのだろうか。日本人特有のものではないのだろうか。

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甘露台

神がかり ペンテコステと どう違う
 甘露台とは 神降りた人

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2007年10月14日 (日)

和顔愛語

職場の一隅に短冊がある。お釈迦様の絵の上に「和顔愛語」の4文字が書かれている。

宗教が原理的に先鋭化していくと、この言葉の実践は難しくなる。他者批判が強くなり、社会問題化していくかも知れない。

その立場が、どんなに正統であろうとも、「和顔愛語」の実践団体の方が、神の恵みが宿っているような気もする。

生活習慣の中に、「和顔愛語」を取り入れるなら、人間関係も、もっと潤いのあるものとなり、生産的になるであろう。

これは、簡単な日々の宗教的実践への誘いでもある。

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2007年10月12日 (金)

大死

肉体の 死の意味問えば 大死へと
 秩序づけらる 我は思えり

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無子孫

子孫なき 人らの課題 語り合う
 宗教者らの 集いあれかし

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諸宗教

諸宗教 入り混じりたる 我が国に
 その関係は いかにあるべき

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熟慮

ちょっと待て 溺れる人が 我掴み
 我も溺れん 不安な時に

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2007年10月10日 (水)

病妻

病妻の 智恵子を負いて 光太郎
 縁なかりせば 幸はいかにと

高村光太郎に、もし智恵子に出会わなかったならば、智恵子は、もっと幸せだったかも知れないという思いはなかったであろうか。

智恵子の病気の原因は、もちろん、光太郎にはなかったろうが、縁を引き受けたところに、因が生まれたという思いはなかったであろうか。

これは、病妻を抱える夫には、誰にもあるのではないだろうか。

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絶対他力信仰

絶対他力信仰は親鸞の教えたものであるが、キリスト教でもまた同じであることは、バルトも指摘している。

しかし、これは、ある人たちが思うように、弱い者の信仰ではなく、人の中に真の自主独立の心を育むものである。

世俗的価値には、人はある程度、頼らなくては生きてはいけない。しかし、それらは、絶対他力信仰の対象ではない。

絶対他力信仰を弱者の信仰と思うなら、それは、誤解であろう。真の主体性が生まれるところ、そこが絶対他力信仰の場だからである。

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この世への 執着を捨て 死の準備
 日々の行え 巡礼となり

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感謝

ありがとう 生活の中に 根付く時
 多くの病 退散すべし

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2007年10月 8日 (月)

病喜

病あり 天の乗り物 そう思い
 病気いつしか 病喜となれり

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包括主義

諸宗教の混在する日本で、他の宗教者と誠実に付き合うためには、包括主義を、もう一度、考えなおすことが大切かも知れない。

カール・ラーナーの「無名のキリスト者」の発想が、そこにある。仏教徒も「無名のキリスト者」であり、またキリスト者も「無名の仏教徒」という具合に、互いに「異体」であっても、「同心」の過程にあると考えればいいのだ。

ここで、露骨に改宗主義を持ち出しては、対話ができなくなるだろう。

吉満義彦は、私はカトリックという立場で、キリスト教全体を考えていると言ったことがある。最近は、カトリックの中で、日本の宗教・思想への関心が高まっているように思うけれど、対話の材料を提供しているということでは歓迎すべきと思う。

エキュメニズムも、諸宗教対話も、包括主義原理でいけば、前進できるような気がする。

ここでも、内村鑑三は先駆者である。

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2007年10月 7日 (日)

劇場

存在の 舞台で踊る 人多く
 マスコミ囃し 劇場続く

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病人の 病の因に 心がけ
 感謝があれば 病癒えんと

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子孫

先祖らの 品受け継ぎて 子孫なく
 いかにすべきか その品々を

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存在を 競えとサタン 誘う声
 聞きつつ無へと 観じつつ行く

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神仏基

神仏基 入り混じりたる 家に生く
 島国なれば 融通つけん

共通の もの否定せず 取り込んで
 理解深まり 言葉新たに

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過ち

過ちを 許さぬ人に 降りかかる
 苦難の意味を 解くなら光

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感謝報恩

感謝して 恩に報いる 古(いにしえ)の
 道徳なれど 常に新し

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2007年10月 5日 (金)

生と死

生と死は 二つで一つ 生のみを
 思いて滅す 競争の弊

死の準備 病来たりて 思う時
 あとを濁さず 飛ぶ鳥の如

老人は 思い出に生く 師の言葉
 因と縁とを つらつら思う

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