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2007年10月10日 (水)

絶対他力信仰

絶対他力信仰は親鸞の教えたものであるが、キリスト教でもまた同じであることは、バルトも指摘している。

しかし、これは、ある人たちが思うように、弱い者の信仰ではなく、人の中に真の自主独立の心を育むものである。

世俗的価値には、人はある程度、頼らなくては生きてはいけない。しかし、それらは、絶対他力信仰の対象ではない。

絶対他力信仰を弱者の信仰と思うなら、それは、誤解であろう。真の主体性が生まれるところ、そこが絶対他力信仰の場だからである。

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コメント

「親鸞からキリストへ」、そんな信仰の軌跡を綴った本があった。それは、それでいいと思う。しかし、親鸞の信仰をキリスト者が見直してもいいと思う。

プロテスタントの信仰は、パウロ、アウグスチヌス、ルターの線だと一般には考えられているだろう。ルターの信仰を改革して、カルビンがプロテスタント信仰の究極と思う人も、改革派の中にはいるかも知れない。それはそれでいいと思う。

しかし、パウロもアウグスチヌスも、カトリック教会では「聖」の文字が頭につけられている。重んじられているのである。

信仰義認の信仰で、カトリック教会を批判することは、既に歴史の遺産になってきている。きちんと対話できれば、分裂は避けられたかも知れないが、世俗的価値が関わっていたので、それができなかったのかも知れない。

であれば、カトリック信仰が、パウロ、アウグスチヌス、ルターの線に自己の信仰の展開を見ても、いいのではないだろうか。もちろん、アウグスチヌスにあって、ルターにないもの、カルビンにないものもある。

しかし、キリスト教史全体の中での議論が展開していくならば、それは相互理解の深化を意味するだろう。

同じことは諸宗教との関わりにも言えると思う。

バルトの宗教批判は知られているが、それはコンテキストの中で考えられるべきであろう。

超自然と自然、信仰と理性、その二つの楕円の焦点を考えながら、弁証法的に信仰理解を展開していくべきではないだろうか。この「二つの楕円の焦点」という理解を排除するなら、そこには、原理主義的な硬直した信仰理解が残るのみではないだろうか。

原理主義は、キリスト教の中では、根本主義という言葉で語られてきた。そして、福音主義という言葉には、信仰の核心は根本主義と同じだけれども、という微妙な距離感の表明が隠されていた。原理主義的対応への批判は、プロテスタントの保守的信仰者の中にもあるのである。


投稿: | 2007年10月10日 (水) 19時21分

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