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2007年10月21日 (日)

急変説

内村鑑三は『代表的日本人』の中で、こんなことを言っています。

「宗教は人間の最も主たる関心事である。宗教なき人間は考えることができない」

私も同感です。しかし、別の個所では、こうも言います。

「一国民は言うまでもなく、一人の人間と雖も、一日にて回心せしめらるべきものと信ずる勿れ」

これは、どうなんでしょうか。回心の定義の問題かも知れませんが、回心は「瞬間的」「即座」という人たちもいます。

内村鑑三は、その著『求安録』で、こんなことを言っています。

「而して余輩は思考の結果として、観察の結果として、心霊上実験の結果として、宗教上に於ても急変説に価値を置かざるものなり」

「真理は余輩の呼吸する空気の如く、余輩の日常飲用する水の如く、其効果は確固なると同時に其働きは静かにして遅きものなり、真理は劇薬にあらざるなり」

彼が再臨運動を共に行ったホーリネス教会の中田重治は、むしろ「急変説」を主張したのではないでしょうか。
新生・聖化・神癒・再臨という四重の福音が中田の立場でしたが、新生は急変ではないでしょうか。

しかし聖化は、内村の言うように「其働きは静かにして遅きもの」でしょう。だから、内村の言うことも間違いではないけれど、それがすべてと言えば、新生なくして聖化が起きるだろうか、という問いが残るかも知れません。

オズワルド・J・スミスというカナダ・トロントにあるピープルス・チャーチの牧師がおりました。プロテスタント宣教百年の時に来日したそうです。教会とキリスト者に向けて挑戦的な言葉を残しています。その中に、こんな言葉があります。

「救いは瞬時の経験であり、またそうでなければなりません。誕生は常に瞬時の出来事です。新生も瞬時の経験でなければなりません。新生に至るまでに長い年月を要するかも知れません。しかし新生は急に起こります。それは瞬時の経験です。漸次的回心というようなことはありません」(『汝の首をあげよ』)

私も、そう思います。

C.G.フィニー、サンダーシング、パウロなど、その回心体験はよく知られていますが、みな瞬間的だったのではないでしょうか。

パウロの回心体験は、聖書(使徒言行録22章)にしるされています。

「回心に続いての十数年は、パウロにとって、大体に於て平穏に流れたように見える」と、『パウロ』(波多野精一著)は書いていますが、その間に、自分の宗教的信念体系をじっくりと反省したのではないでしょうか。もちろん、回心を中心として。

そして、どうなったのか。『パウロ』は、こう書いています。

「急激なる回心、生のあざやかなる方向転換は勢い彼の思想に著しき二元論的傾向を与えた。個人の生涯ばかりか人類の歴史も、真の生の源であるキリストによって載然と二つの期に分たれ、それに応じて世界の存在も、二種類の相反する力の活動と緊張とを示す、とパウロは考えた」

「霊の働きに於て弟子達は、超越的なるもの将来的のもの、神と神の国とを、内在的のもの現在的のものとして、体験したのである」」

おそらく、この霊の体験がキリスト教信仰の原点であると、私は考えています。

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