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2007年10月22日 (月)

偶像

偶像というのは、究極と関係づけられていて、そこから価値を引き出しているが、究極への道しるべでなくして、そのものが究極と見なされるところに生まれるのではないだろうか。

思惟については、こう言われる。

「思惟の対象なしには思惟はあり得ない。従って対象あってのみ思惟は完全なのである」(『プロティノス』鹿野治助著)

その対象は、時に、何かを指していることがある。そんな時、その何かに思惟は向かう。しかし、その何かに向かわないで、とどまる時、「宗教の風景化」が始まる。

「感覚的認識や分別的認識に於いては、その対象は外にあるから、把握されたものは「影像」で事物そのものではない」(『プロティノス』鹿野治助著)というが、対象は「事物そのもの」との関係の中で、「影像」となる。

一応、外の対象を通して、「事物そのもの」へという道が通常の道である。しかし、一度、この道を通ったならば、「事物そのもの」の直接的経験の道があるのではないだろうか。対象が外にあるのではなくて、内にあるという事態の転換もありうるのではないだろうか。そこには、偶像の出る幕はない。

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