« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月30日 (金)

地球温暖化対策

経済の 成長至上 ちょっと待て
 地球の命 それが心配

成長を 求めて欲を 解禁す
 リスクも増える 自業自得

瞑想し 欲を解析 苦の因を
 執着離れ さらさら生きよ

方丈記 わびしき住まい これでよし
 必要なもの 多くはないと

| | コメント (0)

2007年11月28日 (水)

比較

称名は 義認対応 唱題は
 聖化対応 これでよいかな

| | コメント (1)

2007年11月25日 (日)

富裕層

成金は 色即是空 虚無主義に
 耐えられるかな 炎は燃える

| | コメント (0)

「善意の人々」

カトリック教会の中で、「善意の人々」という言葉を聞いて、何か宗教多元主義的な発想があるのではないかと思ってきた。しかし、宗教多元主義には批判があり、包括主義が境界なのだという人もいる。

遠藤周作氏の最後の大作『深い河』も、宗教多元主義に立つと批判されるかも知れないが、いや、包括主義なのだという反論もあるらしい。

カール・ラーナーの「無名のキリスト者」も包括主義の中で解釈されるべきなのだろう。

諸宗教の出会いの機会が、最近は以前よりも多いかも知れない。その時、他宗教の人たちも、神の「恵み」を豊かに受けているのではないかと思うこともあるだろう。その実感と、キリスト教信仰の排他性を、どう調停したらいいのだろうか。

「救いはこのかた以外によっては得られません。人間につけられた名のうちで、われわれを救うことのできる名は、この世において、ほかにはないのです」(使徒行録4章12節、フランシスコ会聖書研究所訳注)

この言葉をストレートに信じた時、他宗教の人たちの立場は、どうなるのだろうか。恐らく、否定的なものとなり、回心とか、改宗の対象としか見られなくなるかも知れない。

しかし、その時、他宗教者の高徳に触れて、ことはそんなに単純ではないと知ることもある。そして、信仰の中では、「知らない」部分も大切なのだと思う。キリスト信徒にとって、他宗教者たちの救いのプロセスは、あの使徒行録の記事から類推して、あえて結論を出すのではなく、「自分は知らない」として、神に委ねてもいいのではないだろうか。

たとえば、仏教の禅宗などと比較すれば、自己分析の深さ、鋭さなどに関しては、キリスト教よりも優れているのではないだろうか。なぜなら、宗教の入り方が実存的だからである。

中世思想にしても、ヘブライ思想だけではなく、それがギリシャ思想と出会い、教えられつつ、反省を深めるプロセスの中で、普遍性を持つようになっていったのではないだろうか。信仰と理性との関係である。

であれば、日本の思想は何か、それは教会にとって無視できない課題であろうと思う。

| | コメント (0)

2007年11月23日 (金)

異邦人

異邦人 出会いと別れ 繰り返し
 巡礼の果て その名の終わり

| | コメント (0)

2007年11月22日 (木)

教行信証

親鸞の 主著に込めたる 信一字
 絶対他力 その思い込め

「行」と「信」との関係が問われる。「行」は自力を意味するかも知れないが、その果ては「行」の否定の「信」である。だから「信」には、「行」の自力の要素は含まれていない。
しかし、「行」のない所に「信」が成り立つかと言うと、それもないと思う。絶対他力は、自力を媒介し、否定するものではないだろうか。

| | コメント (0)

謝罪

正機とは ただ恵みなり 悪人の
 自覚の中で 謝罪終わらず

| | コメント (0)

諸宗教

対決か いや共感の 世界あり
 互いに教え 学ぶ時あり

| | コメント (0)

疑義

信仰を 救い条件 疑義あらん
 真宗の人 指摘うなづく

| | コメント (0)

日光

日光に 観音さまの 信仰の
 あとを見い出す 華厳の滝よ

| | コメント (2)

煩悩

煩悩を 生きると見れば 悟りとは
 眠りに似たり これでよいのだ

この眠りから覚めるというのは周囲に迷惑をかけることにつながるのかも知れない。

| | コメント (0)

六道

六道の 記憶あざやか 忘れ得ず
 悟りは何か 眠りにも似て

| | コメント (0)

戦争と平和

限界の 状況に生く 戦いの
 日々の真理を 平和の時も

| | コメント (0)

執着

執着を はずして生きる ひょうひょうと
 フーテンの人 悟りの境地

| | コメント (0)

2007年11月21日 (水)

観音と使徒

観音の 変身しても 救う意志
 使徒のうちにも それはあったと

| | コメント (1)

ブレンドの味

ストレート それもいいけど ブレンドも
 捨てたものでは ないと思うよ

| | コメント (0)

2007年11月16日 (金)

教派を問う

ドストエフスキー時代の、あるロシアの宗教思想家が、カトリックはペテロ系、プロテスタントはパウロ系、そしてロシア正教はヨハネ系と、類型化して紹介していたと思う。

カトリックはペテロ系、プロテスタントはパウロ系は分かるような気がする。教皇はペテロの後継者というし、ルターの旗印「信仰義認」を説くガラテヤ書はパウロの書いたものだから。

正教がヨハネ系とは、どういう意味なのだろうか。ホミャーコフの語るソボルノスチ(霊的共同体)の理念に、ヨハネを思うのだろうか。

しかし、よく考えれば、これらは聖書という基準に関しては共通している。だから、カトリック教会といっても、新約聖書の多くの部分を書いているパウロの教説の下にあるのである。それに対立するところに、ペテロの教えがあるのではないだろうと思う。

また、プロテスタントは「聖書のみ」、カトリックは「聖書と聖伝」という形で、両者の違いが語られてきた。今でも、そう教えられているだろう。そこでは、「聖伝」とは何かが問われるべきかも知れない。伝は「伝統」に関係がありそうだ。解釈原理と考えれば、どうだろうか。プロテスタントの教派は、聖書に対する、それぞれの解釈原理が多様という意味ではないだろうか。だから、「聖書のみ」と言っても、実は、各教派は、「聖書と聖伝」で立っているのだと言えないだろうか。

| | コメント (4)

2007年11月14日 (水)

「天皇陛下万歳」を思う

戦時中、「天皇陛下万歳」を叫んで、死んでいった日本人がいた。軍歌にも、そんな歌詞がある。

その人たちは、神格化された天皇個人のために死んだのだろうか。

「海ゆかば」の中には、「大君の辺にこそ死なめ」という言葉がある。大君は天皇の意味だから、戦時中の軍人と同じような精神が、そこにあるのかも知れない。万葉集には「大君は神にしませば」ともある。国家神道の根は、万葉の昔にまで遡ることが出来るのだろうか。

しかし、あの言葉を叫んで戦死した人たちは、神格化された天皇個人のためだけでなく、家族・民族・故郷なども含めて、死んでいったのではないだろうか。それら万感の思いが、「天皇陛下万歳」の中に込められていたのではないだろうか。そして、象徴天皇制は、その思いを今の尊重しているという証しなのではないだろうか。

愛国心が偏狭になり、自国中心になり、戦争イデオロギーと結びつく時、宗教者は反対せざるを得ない。しかし、それは愛国心という言葉に含まれるかも知れない、あの日本の家族・民族・故郷(文化)などに対する愛の否定を意味しない。それらが否定されるところでは、それがどれほどよいものであっても、宗教の宣教・伝道はできないだろうと思う。

日本は島国である。従って、その体制を相対化するきっかけに恵まれていない。

明治維新、日本の遅れを知らされた為政者たちは、遅れを取り戻すために、中央集権的国家を造った。その時、あの万葉集の「大君は神にしませば」の「神」が別の意味を持ち出したのではないだろうか。日本の近代化が目的であり、「そのための」と言われる時、そういう「神」は、本当の「神」なのだろうか。そんな問いも感じる。

いずれにしても、島国・日本が世界との関わりの中で生き続けるためには、世界の価値観との出会い、解釈そして、排除・摂取が必要である。和辻哲郎が、敗戦の原因を尋ねていく中で著した『鎖国』の中で示した、日本近世史におけるキリシタン排斥への反省は、日本が個でありつつ、普遍にも訴えるものを持っていることを示すために、そしてこれからの真の日本の価値観創造のために必要な手続きの最初であるように思う。

| | コメント (2)

聖徳太子再考

607年の遣隋使の国書にある「日出処(ひいずるところ)の天子書を日没する処の天子に致す」の文章は聖徳太子のものだという。これを受け取った隋の煬帝(ようだい)は、この言葉にカチンときたらしい。太子の矜持を示すものとして覚えておきたい。それはまた、「日本人の矜持」をも意味するかも知れない。

聖徳太子は、日本の仏教史の冒頭に出てくる大人物である。原点である。

「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」の一つは法華経である。だから法華経は日本仏教史の最初から知られていたことになる。

後代に至り、太子は親鸞にも影響を与えた。親鸞は六角堂に百日こもり、聖徳太子の示現の文にあずかり、そこから法然のもとに行ったというのだから、浄土真宗とも深い関係にある。

そして、何やら聖徳太子はキリスト教とも関係があるようにも見える。広隆寺を造った秦河勝は景教というキリスト教に関係していたという人もいる。

聖徳太子再考は、日本に生きるキリスト者としても意味あることではないだろうか。

| | コメント (0)

離婚会見

原因を 説明しても 意味ないさ
 分かれば 道はまだあるのにと

春風亭小朝とんと泰葉さんの離婚会見があった。説明されたが、原因は所詮、本人同士にしか分からないのではないだろうか。

| | コメント (0)

2007年11月12日 (月)

主の祈り

主の祈りは、神への呼び掛けに続いて、「御名が崇められますように。御国が来ますように。」という祈願が続く。

この個所で、カトリック教会では、「御名が聖とされますように」と祈る。どういう意味なのか、少し考える人もいるかも知れない。こういう日本語があるのだろうか、と。

御名は神の名ではあっても、三位一体の神であり、その中に「イエス・キリスト」の名も含まれている。救いとは、この「イエス・キリスト」の名を呼ぶということである。その時、心の中に、三位一体の、もう一つの位格、聖霊が降る。そして、この体験の中で、人ははじめて、生きている神を知るのである。だから、御名は、人の救いにとって、一番大切なこと、価値観の頂点にあるものである。

二番目に、「御国が来ますように。」と祈る。

ここでは歴史観、歴史解釈が問われている。この祈りが、ただ、いつの日か、あるいは突然、現れる神国への待望だけでなく、われわれの行動にも具体的に働きかけるには、歴史観が求められている。

新聞は、世の動きをキャッチして報告するのが、第一の使命であろう。もちろん、今では、テレビの方が、その役割りを果たしているかも知れない。だから、新聞は、新しい役割りを探さなければならない。

取材の前提には、ニュースバリューへの判断がある。しかし、日々の刹那的な出来事ではなくて、もっと重要な価値、意味を持つ出来事には、歴史観が前提となるだろう。

このような歴史観を育てる機会が少ない。問題提起もされていない。

「御国が来ますように。」と祈る時、ペンテコステ的出来事のように神国が到来することを待望しているのかも知れない。しかし、信徒は、聖化の道を歩んでいるのである。聖霊降臨による自由を、どう使うかが信徒に問われている。その時、歴史観、歴史解釈の中で、将に来つつある社会・時代の幻を探さなければならないのである。

現代の教会に元気があると思っている人は、それでもいいが、問題があると思っている人は、そのような幻の欠如を感じているのではないだろうか。内村鑑三にも、賀川豊彦にも、そういう幻は見えていたのである。だから、彼らは霊的指導者となったのである。

| | コメント (0)

謝罪

情報の 漏れから謝罪 頻繁に
 不正容認 漏れなくすには

ITは 情報の漏れ 容易化に
 時代の変化 謝罪頻発

最近の世相を見ると、謝罪会見が多いのに気づく。なぜか。不正が内部から漏れているのではないか。それが、社会の変化によって、容易になっている。

「守秘義務」というものがある。一方、「内部告発」というものが、奨励される向きもある。しかし、この二つは矛盾しているのではないか。

会社の不正に直面した時、どう判断したらいいのだろうか。難しい判断が求められるケースもあるかも知れない。

しかし、社会のIT化は逆転しないだろう。その中で、法の条文の権利・義務を多角的に検討していかなくてはならない。

| | コメント (0)

2007年11月 9日 (金)

新時代

改革の 負の遺産受け 一致へと
 舵取り進む 幻求め

公会議 これも船出だ 新しき
 世の模索なり 批判はあれど

新たなる 光はいずこ 東方に
 仏基の対話 目的知らず

| | コメント (1)

2007年11月 8日 (木)

新しき中世

新しき中世は、歴史的中世の再来を意味しない。歴史的中世はギリシャとヘブライが、その主要構成要素としてあった。

新しき中世は、インドとヘブライを、その主要要素とするかも知れない。

世界教会協議会、第二バチカン公会議の中に、その指向性が見られる。

その方向を少しずつ、進んでいけばいいのである。

| | コメント (0)

2007年11月 7日 (水)

紀伊国屋文左衛門

成金が 散財しのち 淋しげな
 文左の顔に 仏の影も

| | コメント (0)

不動の動

動かない そんな振りして 少しずつ
 動いていくのが 最善と知る

| | コメント (0)

2007年11月 5日 (月)

仏性

涅槃経に「一切衆生悉有仏性」という言葉があり、よく引用される。

「一切衆生は、本来、仏としての本性を持っている」という意味である。

キリスト教では、神のかたち、似姿は人間のみという教えである。だから、他の動物と人間との区別が教えられている。

しかし、他の動物も、人間と無関係に生きているわけではない。

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章22節)

被造物全体の中には、他の動物、植物たちも入るのではないだろうか。罪によって苦しみ、救いによって喜ぶのは、人間個人のみではない。全被造物が、その影響を受けるというのである。

| | コメント (0)

2007年11月 4日 (日)

縁とは人間関係重視の思想そのものではないだろうか。そこで否定されているのは、極端な個人中心思想であろう。それを亜流西洋思想とすれば、その中で、縁の思想は、健康な思想への促しとなる。

アダムの堕罪と、その影響としての原罪、そして、イエスの死と、その影響としての救い、それらは、われわれの「外」で起きたことであり、しかも、現在のわれわれに重大な影響を及ぼしている。

人は、自分の手の届かないところで起きている事柄にも、注意しなければいけない。人間の可能性の外にあるもの、それへの眼差しは、縁の思想とだぶるものがあるように思う。

| | コメント (0)

慎みと規律の国

仏教からは慎みを、儒教からは規律を教えられてきた国が日本。日本のかたち、それは慎みと規律ではないだろうか。

慎みとは色即是空の思想からくるものである。

| | コメント (1)

2007年11月 2日 (金)

無為

非番の日 骨休めの日 貴重なり
 無為の仕事を ひしひし感ず

「無為の仕事」は空即是色に対応するかも知れない。

| | コメント (0)

無限包容

阿弥陀仏 悪人の願 聞き入れん
 観音もまた 無限包容

| | コメント (0)

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »