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2007年11月25日 (日)

「善意の人々」

カトリック教会の中で、「善意の人々」という言葉を聞いて、何か宗教多元主義的な発想があるのではないかと思ってきた。しかし、宗教多元主義には批判があり、包括主義が境界なのだという人もいる。

遠藤周作氏の最後の大作『深い河』も、宗教多元主義に立つと批判されるかも知れないが、いや、包括主義なのだという反論もあるらしい。

カール・ラーナーの「無名のキリスト者」も包括主義の中で解釈されるべきなのだろう。

諸宗教の出会いの機会が、最近は以前よりも多いかも知れない。その時、他宗教の人たちも、神の「恵み」を豊かに受けているのではないかと思うこともあるだろう。その実感と、キリスト教信仰の排他性を、どう調停したらいいのだろうか。

「救いはこのかた以外によっては得られません。人間につけられた名のうちで、われわれを救うことのできる名は、この世において、ほかにはないのです」(使徒行録4章12節、フランシスコ会聖書研究所訳注)

この言葉をストレートに信じた時、他宗教の人たちの立場は、どうなるのだろうか。恐らく、否定的なものとなり、回心とか、改宗の対象としか見られなくなるかも知れない。

しかし、その時、他宗教者の高徳に触れて、ことはそんなに単純ではないと知ることもある。そして、信仰の中では、「知らない」部分も大切なのだと思う。キリスト信徒にとって、他宗教者たちの救いのプロセスは、あの使徒行録の記事から類推して、あえて結論を出すのではなく、「自分は知らない」として、神に委ねてもいいのではないだろうか。

たとえば、仏教の禅宗などと比較すれば、自己分析の深さ、鋭さなどに関しては、キリスト教よりも優れているのではないだろうか。なぜなら、宗教の入り方が実存的だからである。

中世思想にしても、ヘブライ思想だけではなく、それがギリシャ思想と出会い、教えられつつ、反省を深めるプロセスの中で、普遍性を持つようになっていったのではないだろうか。信仰と理性との関係である。

であれば、日本の思想は何か、それは教会にとって無視できない課題であろうと思う。

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