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2007年11月14日 (水)

「天皇陛下万歳」を思う

戦時中、「天皇陛下万歳」を叫んで、死んでいった日本人がいた。軍歌にも、そんな歌詞がある。

その人たちは、神格化された天皇個人のために死んだのだろうか。

「海ゆかば」の中には、「大君の辺にこそ死なめ」という言葉がある。大君は天皇の意味だから、戦時中の軍人と同じような精神が、そこにあるのかも知れない。万葉集には「大君は神にしませば」ともある。国家神道の根は、万葉の昔にまで遡ることが出来るのだろうか。

しかし、あの言葉を叫んで戦死した人たちは、神格化された天皇個人のためだけでなく、家族・民族・故郷なども含めて、死んでいったのではないだろうか。それら万感の思いが、「天皇陛下万歳」の中に込められていたのではないだろうか。そして、象徴天皇制は、その思いを今の尊重しているという証しなのではないだろうか。

愛国心が偏狭になり、自国中心になり、戦争イデオロギーと結びつく時、宗教者は反対せざるを得ない。しかし、それは愛国心という言葉に含まれるかも知れない、あの日本の家族・民族・故郷(文化)などに対する愛の否定を意味しない。それらが否定されるところでは、それがどれほどよいものであっても、宗教の宣教・伝道はできないだろうと思う。

日本は島国である。従って、その体制を相対化するきっかけに恵まれていない。

明治維新、日本の遅れを知らされた為政者たちは、遅れを取り戻すために、中央集権的国家を造った。その時、あの万葉集の「大君は神にしませば」の「神」が別の意味を持ち出したのではないだろうか。日本の近代化が目的であり、「そのための」と言われる時、そういう「神」は、本当の「神」なのだろうか。そんな問いも感じる。

いずれにしても、島国・日本が世界との関わりの中で生き続けるためには、世界の価値観との出会い、解釈そして、排除・摂取が必要である。和辻哲郎が、敗戦の原因を尋ねていく中で著した『鎖国』の中で示した、日本近世史におけるキリシタン排斥への反省は、日本が個でありつつ、普遍にも訴えるものを持っていることを示すために、そしてこれからの真の日本の価値観創造のために必要な手続きの最初であるように思う。

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コメント

「海ゆかば」は「海行かば」が正しい表記かも知れません。

この歌詞は、万葉集巻18の大伴家持の長歌中の句に由来します。少し、説明が足りませんでした。

「海行かば水(み)漬(づ)く屍(かばね)山行かば草むす屍大君の辺(へ)にこそ死なめ顧みはせじ」という句です。

作曲者は信時潔です。戦争で、日本軍玉砕の時に流されたため、この曲に複雑な気持ちを持たれる方もいると思いますが、私は名曲と思っています。

同時に、大君をキリストの啓示された神と置き換えた時、どういう光景が現出するのだろうか、とも思います。

投稿: | 2007年11月14日 (水) 19時50分

「海行かば」には、諦観、最高の犠牲、御国の瞥見というテーマが最高に表現されていると思います。

投稿: | 2007年11月19日 (月) 12時21分

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