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2007年11月 9日 (金)

新時代

改革の 負の遺産受け 一致へと
 舵取り進む 幻求め

公会議 これも船出だ 新しき
 世の模索なり 批判はあれど

新たなる 光はいずこ 東方に
 仏基の対話 目的知らず

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コメント

「改革」は、宗教改革のこと。「負の遺産」とは教派主義の意味。その反省から、世界教会協議会が生まれた。「公会議」とは、第二バチカン公会議の意味。一応、その船出を祝したい思いです。「仏基の対話」とは、仏教とキリスト教との対話のこと。その対話には、ある程度の歴史があるのですが、どこに行くのか、その目的は何なのか、はっきりしていないかも知れません。その目的を見い出すことが、課題かも知れません。

キリスト教は、歴史的には、特に西洋と結び付けられましたが、それが必然であったかどうか、それ以外の可能性はないのか、それは議論があるかも知れません。西洋のキリスト教というのは、主にヘブライの信仰とギリシャ思想、それにローマの社会が結びついて出来たものです。習合のようでもありますが、まざりあって一つとなったというのは、余りにも大雑把な理解で、むしろ「秩序づけられた」という言葉の方が正確と思います。それらは、分解を拒否しているのでしょうか。私は、そうは思いません。

ローマ・カトリック教会が生まれ、その中から、プロテスタント教会が現れてきました。しかし、プロテスタント教会は教派の集まりです。ある意味では、それらは、一つなるキリストのからだの各部分の主張のようにも思えます。

ギリシャの思想、ローマの社会がヘブライの信仰と結びついて、「体制的宗教」として、日本に紹介されてきました。しかし、日本には、ギリシャとか、ローマというのは、余りなじみがありません。それよりも、仏教や儒教の方が、歴史的になじんできました。仏教とキリスト教との対話が始まり、いろいろな示唆が与えられています。しかし、その目的は、何を目指して対話するのでしょうか。その目的が見い出された時、東方から新しい光が輝くような気がしています。私は、それが「新しき中世」と思っています。

遠藤周作さんは、そんな思いを共有されていたかも知れません。最後の大作が「深い河」というのは、大きな示唆を残されたと思います。日本に生きるキリスト者として、仏教との対話を抜きにして、その固有の使命を果たすことはできないと思います。

投稿: | 2007年11月11日 (日) 19時25分

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