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2007年12月18日 (火)

近代の超克

吉満義彦は、座談会「近代の超克」の出席者の一人であった。彼は盛んに発言していたが、その後の、この座談会の評価の中で、余り言及されていないように思う。

彼の歴史認識に関して、こんな言葉がある。
「それ故にカトリック的意識より見れば、近代西欧の精神が「根こぎにされ」神自らを見失った根源はまさに十六世紀における「教会よりの分離」にあるので、これが十八世紀において「キリストより分離」せる合理主義的理神論となり、その同じ軌道を追うて十九世紀における「神よりの分離」となり無神論的唯物論の荒らすところとなったのである」
(『吉満義彦全集第1巻』279頁、「カトリック的宗教復興の現象と理念」)

このような歴史観は、カール・アダムと同じである。このような歴史観に最初に触れた時、私はプロテスタントであった。だから、当然、不満を感じた。

16世紀とあるのは、宗教改革のことであろう。しかし、宗教改革が、その後の啓蒙主義や共産主義の「原因」になったというのは、どうなのだろうか。プロテスタントの信徒たちは反発を感じるのではないだろうか。信仰義認の理解に関しては、カトリックとルター派は根本的には同じという声明まで出しているのが今日の現実である。

あるいは、宗教改革は、その後の啓蒙主義、共産主義の「原因」ではないが、「誘因」となったというのであれば、それは、ある程度、言えるのかも知れない。

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