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2008年1月22日 (火)

ザビエルを継ぐもの

1549年、フランシスコ・ザビエルが来日し、日本でのキリスト教宣教が始まったことは歴史的事実であり、変更が許されない。しかし、その、ザビエルの伝えたキリスト教をそのまま伝えることが、後世に生きる信徒の使命であろうか。そうではないかもしれない。もちろん、福音の根本が変わるわけではないので、その点は不変のものとして、伝えられねばならない。

日本は文化的な体を持った国である。そこに別の体が入ってきたとき、摩擦が起きるのは予想できることであろう。この体が福音かといえば、いや、そうではないかもしれない。体ではなく魂だけでもいいかもしれない。そして福音を魂の次元でとらえたのは、あるいは無教会を提唱した内村鑑三ではなかったであろうか。それは一つの試みであったし、今でもそうであるかもしれない。しかしそれは、第二バチカン後のカトリックの中にあっても、可能性があるのではないだろうか。

諸宗教への関わり方への変化の中で、それは宣教の否定なのではなくて、新たなる出発なのかも知れない。そして、この意識の転換をベースにして、ザビエルを振り返ることも、また許されているのではないだろうか。

同時に、日本のプロテスタント信徒が、ザビエルの信仰に、どこか共有できるものを見いだした時、日本のキリスト教は新しい展開を見せるのではないだろうか。相対的なものを相対的に、また絶対的なものを絶対的に、その精神が必要であろうと思う。

岩下壮一の霊名が「フランシスコ・ザベリオ」であり、ザビエルのことなのだけれども、ちょっと違っているのも、考えようでは、意味深長なことであるかも知れない。

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