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2008年1月22日 (火)

キリシタン時代

キリシタン時代に生きて、殉教した26人が、その後、列聖され、今では26聖人として知られている。

しかし、キリシタン時代が、その後の現代に生きるキリスト者、いやカトリック信徒たちにとって、どんな意味があるのだろうか。

というのは、同じキリスト者と言っても、プロテスタントの信徒たちにとっては、自分たちの信仰の源流をキリシタン時代に置くことはないであろうからである。

おそらく、キリシタン時代の、あの聖人たちを中心にして逆境の中でも信仰を貫く姿勢を思い出して、今を生きる信徒たちを励ますという意味が、あの時代の回想の中に込められているのかも知れない。

しかし、キリシタン時代というのは、ある意味では、想起したくない時代ではないだろうか。今、そこから何を学ぼうというのだろうか。

キリシタン宣教の裏に植民地化への脅威を感じた為政者たちが、禁教令を発して、それを機に棄教者が続出しても、棄教者たちを責める気にはなれない。外国の植民地にはなりたくない、信仰を守っていては生きられない、そんな思いにかられた信徒の中で棄教者が続出しても、それは当然に思える。その時、あのキリシタン時代を、ただ信仰に生きた人たちを見習おうということで想起するのであれば、事柄を単純化しているように思えるし、余り説得的ではないようにも思える。

しかし、キリシタン時代のカトリックと、第二バチカン以降のカトリックを比較した時、特に諸宗教との関係において、大きな違いがあると思う。第二バチカン以降のカトリックをザビエルが宣教していたら、キリシタン史は別の姿をとっていたと思う。そんな試みがあってもいいのではないだろうか。そして、今まさに、その試みが進行しているのだと思う。

あの殉教の時代ではなくて、別の意味のある時代が生まれてくるかも知れない。それは、西洋のキリスト教ではなくて、東洋のキリスト教である。ギリシャ思想との対話ではなく、ある意味では仏教との対話の中から生まれてくるキリスト教なのかも知れない。

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