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2008年1月31日 (木)

スコラ哲学

スコラ哲学は中世の哲学である。そして歴史的中世は歴史的近世に移行した。近世の方が価値があるという雰囲気が、そこにはある。その流れの中ではスコラ哲学の影は薄い。そのような意識の流れが、あるいは岩下壮一、吉満義彦といった人々への忘却にもつながっているのかもしれない。

スコラ哲学への偏見というものは、啓示的事柄を、単なる理性(合理性)の中での論議として繰り返し、本質的な重要性をどこか置き忘れるといったところにあったのではないだろうか。自然神学は、それなりに面白いものではあるが、東洋的宗教性は、それを可能にするには、あまりにも実存的であろうと思う。釈迦はむしろそういう論議を避けたのではないだろうか。

もう一つ、スコラ哲学、中世哲学は、本質的にはキリスト教哲学であり、カトリック哲学である。この点から関心を持たない人たちもいるだろう。啓蒙主義の子らは、中世を「暗黒の中世」と言い続けるかもしれない。またプロテスタントの信徒たちは、警戒心をもって、その森の中に入るかもしれないし、あるいは全く見向きをしないかもしれない。しかし、理性と信仰が、かつて交渉した、その必然性と、その記録の重要性が分かれば、中世思想への偏見は大いに軽減されるのではないだろうか。

中世の見直しを提唱した人に、E・ジルソン、J・マリタンなどがいた人がいた。松本正夫氏も、そんな流れの中にいた。ラッセルの中世哲学批判はよく知られているが、もう少し中世に寄ったところで、スコラ哲学への貴重なコメントを表明している人に神山四郎氏がいる。『日本の風土とキリスト教』(理想社)にある論文「スコラ哲学の受けとり方について」である。その思いには、今でも共感できるものが含まれているのではないだろうか。
しかし、この論文に注目する人が、今、どれくらいいるだろうか。近代の終焉、ポストモダンの意識は、中世再考につながらないようである。

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コメント

「スコラ哲学の受けとり方について」(神山四郎)の内容を少し紹介したい。

神山は、その当時、主張されていたスコラ哲学を「十八世紀以来の「啓蒙」に対する「逆啓蒙」を意図した積極的な思想」(143頁)という。それは、以前、明治42年(1910年)、ケーベルが提唱した「中古哲学研究の必要」とは違った意識を持っていたという。

ケーベルの場合には、西洋哲学理解のためには、「近世哲学を知るまえにその母胎の中世哲学を知れ、プロテスタンティズムを知るまえにその正統のカトリシズムを知れ」という主張であったが、その中で、ギリシャ・ラテンの古典を教養として学生たちに勧めること以上ではなかった。しかし、19世紀末の新スコラ哲学は、教養ではなくて、もっと明確な主張を持っていたという。

ケーベルは近代哲学に対して、超然としていた。新カント派を学んだ桑木厳翼は、師であるケーベルが、その哲学に批判的なことを知っていた。当時、普通の学生たちの目は近代哲学に向いていたのであろう。その中で、ケーベルの眼差しを受け止めて、新スコラ哲学につなげたのが岩下壮一であったという。そこから、日本にスコラ哲学の移植が始まった。しかし、その後継者たちには、いくらか受け止め方の違いもあった。吉満義彦の場合には、「近代哲学にかなりの同感を示す」が、松本正夫の場合には、「近代哲学にいささかの妥協も肯んじない」「トミズム」であった(143頁)。

そして、そのスコラ哲学の日本における展開について、神山は言う。
「しかしそれが日本の哲学界にどれだけ根を張ることができたか。ざんねんながら満足のゆくものではないようである。スコラ哲学がどうして日本の土壌になじみにくいのかということをもう考えていい時期だと思う」(144頁)

「スコラ哲学が現実にはギリシャ哲学とキリスト教のゆるぎない伝統の上にたてられているとすれば、それを主張するさいの一つの動力としては、西洋の拡散またはヨーロッパの延長という方向にはたらくだろう」(144頁)。そして、その問題点として、「日本人の主体的な立場が西洋の文明の中に埋没してしまっている」「日本不在の意識」を指摘している。

このところで、ただ西洋埋没、西洋盲従の立場が、新スコラ主義なのではないという。もっと、別の視点がある。松本正夫の著書『世紀への展望』(岩波書店)の中の文章(61頁)を引用している。

「西洋の基本的伝統には単にこの地域的なものに留るを得ない人類的世界史的な何ものかが潜んでいる」「この伝統の担当民族の移行に応じて世界歴史の中心もまた移行することによって、この伝統が世界史的な人類共通の遺産であって、これを真に継承することなくしては世界史の中心に参画しえない」

結論で、こう言われている。
「スコラ哲学がヨーロッパで偉大な古典であることを否む者はいまい。しかしスコラ哲学が「永遠哲学」であるから日本にも移し植えるべきであるという天下りの論理ではなく、今の日本に移植する理由を見つけてうまく移植することができたら、そのとき永遠哲学であっと見るのがほんとうではないだろうか」(148頁)


投稿: | 2008年1月31日 (木) 14時46分

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