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2008年1月10日 (木)

自分なりの「典礼」運動

日曜日に教会に行くということは、生活の典礼化の初歩ではないだろうか。典礼運動は教会主体であれば、信徒は受動的だが、自分の人生に関しては能動的でなければならない。そういう視点も大切と思う。

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コメント

「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。これが天地創造の由来である」(創世記2章1~3節、新共同訳)

この日が一日(24時間)を意味するとは思わないが、そして、そう思わなくてもいいと思うが、では無意味かというと、そうではないと思う。7日サイクルで時間・歴史が計られているのである。

宇宙のリズム、神の創造のリズムといったものがあるとしたら、それを暗示しているのではないだろうか。そして、典礼というものは、そのリズムに合わせるという意味なのではないだろうか。その時に、人生の荷が負いやすくなるのではないだろうか。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章30節)

それと同時に、創造の仕事は終わったのであろうか、という問いを感じる。ある意味では、今も継続しているのではないだろうか。人の創造活動の意味ではなくて、神のそれであるけれど。

投稿: | 2008年1月13日 (日) 21時51分

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