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2008年1月31日 (木)

求道

四苦八苦 苦から解放 求道の
 初めなりとは 分かりやすさよ

仏陀の出家の動機は万人の共感するところであろうと思う。

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コメント

イエスの場合には苦からの解放が自分の求道の動機としては語られていないのではないか。
洗礼を受ける前の動機は、苦の問題ではなかったし、サタンの試みにも、その動機はみつからない。求道というものがあったのだろうか。もっとも、「ヘブライ人への手紙」の、ある箇所には、イエスの求道をにおわせる記述もある。
むしろ、自分への求道への招きのような言葉がある。すべて重荷を負うて苦労している者は私のところに来なさい。休ませてあげよう。イエスは、そう言うのである。苦からの解放は、また休みでもあろう。

投稿: | 2008年2月 3日 (日) 09時36分

「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ人への手紙5章7-8節)

この死は、肉体の死というよりも、魂の死のことでしょうか。しかし、キリストは、その死からは元来、解放されていたのではないでしょうか。なぜなら、罪の結果が死だからで、キリストには罪がなかったというのですから。
だから、キリストが、この死に直面したのは、自分のためではなくて、他者のためだったといえるかも知れません。「御子であるにもかかわらず」という個所が、意味深いと思います。

投稿: | 2008年2月 3日 (日) 15時11分

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