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2008年2月29日 (金)

ザビエルとその弟子

加賀乙彦著『ザビエルとその弟子』が講談社文庫になっている。初出は『群像』2004年4月号で、単行本になったのは2004年7月15日だから、4年近くも前に本になっていた。

日本の滞在を終わり、中国行きを待っているザビエルの晩年と死の時までを書いている。特に、ザビエルを日本に導いたアンジロウとの対話が面白かった。

「死霊と生霊」の項目で、臨終の間近にアンジロウがザビエルの前に現れて、ザビエルによる日本宣教に対する意見を言うのであるが、この意見には全く同感である。

「わたくしは、不肖の弟子ですが、師匠であるあなた様を裏切ろうなどと思ったことは一度もありません。恨みがましいことを少し申し上げましたが、それは不平不満ではなく、あなた様の日本宣教について、また将来日本でクリスト教伝道が成功するために、日頃思っていたことを申し上げただけです。今のままの宣教の方法では、将来、仏教のボンズどもや神道の神官たちの反感を買い、過害の嵐を招来させることは必定です。土着の宗教とのもっと寛大なおたがいを尊敬し合う対話こそが大切なのです」(184頁)

日本の宗教を重んじて欲しい、というアンジロウの思いは、その後、第二バチカンでの方針で実現したともいえる。アンジロウは「将来、座禅とクリスト教とは、幸福な出会いをすると思います」(172頁)と言うが、この予言はあたったかも知れない。

このアンジロウの弁明が史実なのかどうかは知らないが、説得力に満ちている。そして、そこには、遠藤周作氏らが感じていた教会への違和感も、のぞいているように思う。単なる、短兵急な西洋追随では、日本では行き詰るのではないかということである。そしてザビエルは「お前のわしへの批判も、もっともと思える。これから日本に来る宣教師たちに、わしは天より霊を送って、その宣教の仕方を改めさせよう。ありがとうよ」と言うのである。著者の判断が、そこにあるのだろうか。

日本宣教への反省を示唆しているという意味では、この本は、重要な問題提起でもある。しかし、そのような問題提起は、既に浸透しているのではないだろうか。

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2008年2月28日 (木)

教皇謝罪

世紀未 教皇謝罪 受けとめて
 何をなすべき 方法いかに

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我は行く

我は行く 時間の船に 乗り込んで
 どこ行く船か 教えられずに

船は行く 大海の上 恐れなし
 動きを注視 我もオールを

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2008年2月26日 (火)

現状認識

危機知らす 信号受けて 何もせず
 そんな社会に 我はおるかも

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情報と知恵

情報は あまたあれども 知恵を欠き
 頭混乱 破滅を招く

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平和国家

軍艦に 民間船が 衝突し
 謝罪に追わる 防衛相が

イージス艦は「軍艦」である。戦前であれば、こういう風景はなかったであろう。もちろん、我々は戦前に生きているのではない。

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2008年2月24日 (日)

方丈生活

保さん 天香さんも 方丈の
 人であったよ 懐かしきかな

方丈の 生活堅し 余裕あり
 心は遊ぶ 宇宙の果てに

保さんは長谷川保氏のこと、天香さんは西田天香氏のこと。

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禅キリスト教

禅は何 己事究明の プロセスで
 我を見る我 乗り移りつつ

我を見る その我は何 同伴者
 同伴の道 永遠目指し

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心霊修行

心霊の 修行を目指す 神父らに
 座禅の魅力 抗し難しか

霊性修練には方法が必要。イグナチオの心霊修行の日本版は何か。

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2008年2月22日 (金)

ビルと人体

清掃と 整備と警備 三つありて
 ビルは維持され 人体もまた

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無所有

管理なき 所有の悲劇 避けるため
 無所有の道 ゆっくり進む

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2008年2月19日 (火)

遠藤氏の立場

「宗教(的)多元主義」という立場がある。支持者としてはJ・ヒックがよく知られている。故遠藤周作氏も、彼の本を読んで、共鳴していたらしい。しかし、遠藤氏は、この立場、多元主義を支持していたのだろうか。あるカトリックの評論家は多元主義ではなくて、包括主義だという指摘もしている。晩年の最後の大作『深い河』から、そう指摘する。

しかし、同じ『深い河』から、遠藤氏は多元主義に賛同している、という読み方をしている人もいる(『禅キリスト教の誕生』佐藤研著、岩波書店、59頁)。

私には包括主義が限界のように思われる。多元主義になれば、自分の信仰がおかしくなるのではないだろうか。多元主義に真理的契機がないとは思わないが、その部分については、あえて判断せずにいてもいいのではないだろうか。それが包括主義なのだと理解している。

包括主義には、あるいは他の信仰者との間には「摩擦」が生じるかも知れない。だから、対話の深まりも期待されるのではないだろうか。

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なぜ中世か

中世という言葉で何がいいたいのかというと、歴史的なヨーロッパの中世を再現しようというのではない。信仰と理性、その関係をもう一度、問うことが大切だということを言いたいのである。

中世とは、ヘブライのキリスト教信仰とギリシャの哲学思想との対話の中から生まれたのである。もちろん、それだけではないけれど、それが核心にあったと思う。それは信仰と理性との対話の中から中世が生まれたという洞察になる。この信仰と理性との関係を考えることは、なにも中世においてのみ重要なのではなく、現代においても大切と思う。

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無名のキリスト者

「無名のキリスト者」とは誰のことか。極端に言えば、キリスト者と言われている人たち以外は、すべて「無名のキリスト者」である、といってもいいのかも知れない。そこから何が生まれるか想像すると、この言葉が何かしら重要に思えてくる。

「善意の人々」という言葉がある。不思議な言葉である。誰が善意の人なのだろうか。大部分は善意の人なのではないだろうか。悪人であっても、それは、その人に対する部分的印象であり、善意のひとかけらもないという人はいないのではないだろうか。そのな心を持っていたドストエフスキーに共感する人は多いと思う。もちろん、逆の心理もあるだろう。

「キリストによる以外に救いはない」という言葉がある。次の聖書の言葉が典拠である。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

そして、また心で信じて義とされ、口で告白して救われる、という救いのプロセスも別の個所で記されている。
であれば、洗礼あるいは信仰告白を通して、この過程の中にある人たちがキリスト者なのだろう。

では、この過程にいない人たちは、どうなのだろうか。全員を「無名のキリスト者」とみなしてもいいのかも知れない。

もちろん、彼らも救われると断言するのではなくて、ただ、救いを神に期待し、委ねるという思いを持つことは、われわれに許されるのではないだろうか。この「許される」というところに「無名の」の言葉が対応しているとしたら、この言葉は、諸宗教対話の時代に、重要な働きをするように思う。

自分と違う諸宗教の信仰の人たちを、ただあの使徒言行録4章12節の聖句によって否定的に見ることも、あるいは原理主義的信仰者にはできるだろうが、現実に接してみれば、共感できるところを見い出すこともできる。その時、「無名の」は本当に役立つ言葉である。もちろん、それは自分の心の中にのみあるのであって、それ以外の場で使うことはできないのだけれど。現実的には、彼らはキリスト者ではないからである。

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生のリズム

労と休 二つで一つ そのリズム
 リズムの二つ 呼吸も然り

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禅的キリスト教

禅は何 仏教だよと みな思う
 いや違うかも まじめな問いだ

見なれない、聞きなれない禅的キリスト教の言葉だが、そんなタイトルの本が出た。著者は聖書学者として知られているが、こんな分野への関心もあったのかと思う。
カトリックの神父さんの中には褝の指導をする人もいる。あなたはキリスト教徒かそれとも仏教徒かという問いも出てきそうだが、その問いと、その回答が本書にはある。禅は宗教をこえているから、どの宗教とも結びつくのだという。

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象徴

3次元 対象ありて その奥に
 思い届かず でも在り続け

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市川崑監督

信の人 亡くなり知った 驚きは
 隠れ信者か 有名人の

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教程

教程は 自然初めに 超自然
 その逆どうか 余裕なき身に

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隠れて生きる

知られれば 雑用多し 賢人は
 隠れて生きる 雑用はなし

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異邦人

「異邦人」 歌詞の味わい 気が付けば
 人生歌う 共感多し

悲しみを 持て余しつつ 旅をする
 異邦人とは 昨日の私

久保田早紀さんの歌「異邦人」を聴いて

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2008年2月17日 (日)

結縁

因果と因縁という仏教思想がある。現実となった結果には原因がある。しかし、原因だけではなくて、縁というものの作用で、それが生じるという。

因と縁で、何事かが生まれてくるという魅力的な思想であり、説得力がある。

そして結縁という言葉もある。しかし、この言葉には、どこか半ペラギウス的な思想に類似のにおいがある。縁というものは因の限界の外にあるのが本来の意味と思う。その縁を因の方に引き寄せようという思惑、それもまた動機形成のためには有意義かも知れない。しかし、どこかで、縁は因とは異質なものといった理解も必要と思う。

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対話から

ミレニアム 前に教皇 謝罪あり
 教会の罪 素直に認む

その思い いかに生かすか 今も問う
 がんがん対話 まずはそこから

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2008年2月14日 (木)

ライサの伝記

フランスの哲学者、ジャック・マリタンの妻ライサの伝記『ライサという名の妻』が、女子パウロ会の新刊書の中にあるようです。著者は高橋たか子氏。46判・304頁で、2310円。

ジャック・マリタンはフランスに留学した吉満義彦の先生でもありました。

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修道生活

中世の 修道院の 生活を
 現代に呼ぶ いかに可能か

健全な 簡易生活 この国の
 伝統にあり 品格求め

永遠に 接続しつつ そを伝う
 充実感は 日々にみなぎり

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近代日本の小説家

小説家 悪に触れずば 成り立たぬ
 そを捨て信に 生くる能はず

表現は 悪を捨つるの 道具なり
 そを知りつつも 信に戻らず

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ロシアの宗教

公認の キリスト教が 国教へ
 教皇が先 皇帝が先

皇帝を 先に立てれば 遷都あり
 東に向かい 新たな文化

皇帝の 権力の下 教会は 
 彼岸志向に 途中切り捨て

第3の ローマの言葉 モスクワに
 神秘と愛の 御国目指して

ソ連あり シベリア映画 たたえても
 すでに消滅 心は残る

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マリアの被昇天

マリアは死を見ずに天にあげられたという。この死は肉体の死なのだろうか。まさかと思う。
ただマリアが無原罪であれば原罪の結果としての死はまぬがれたということは理解できる。その意味なのではないだろうか。
だから無原罪と被昇天はつながっているのだと思う。

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読書

本を読む 仕事でないが 続いてる
 何を生み出す それは分からぬ

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2008年2月12日 (火)

身近なことから

「われわれの外的および内的生活は、いずれもこまかく点検吟味されねばならぬ。われわれの進歩はそれに基づくことが多いからである」(角川文庫『キリストに倣いて』由木康訳、48頁)

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思うこと

「あなたの救いのほか何物をも思わず、神のことのほか何事をも顧みるな」(角川文庫『キリストに倣いて』由木康訳、64頁)

同じような言葉が、ウェスレーにもあったように思う。

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汎神論

ケーベルの 汎神論は 誤解なり
 汎在の説 それに近いと

万物と 創造主との 関係を
 見れば当然 汎在の説

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世紀末

ユダヤ人 苦難もあれば 原爆も
 何を語るか 前世紀末

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人生の目標

始め時 終わり見えれば うまくいく
 終わりを見よう 日々の生活

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諸宗教

諸宗教 真理断片 その内に
 尊重せよと 第二バチカン

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テレビ生活

生活に テレビ来てより 気がつけば
 マスコミ力に 引きずられつつ

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コンスタンティン体制の終焉

体制の 終焉語る 人もあり
 第二バチカン その意味にとり

政教の 分離に向けて 歩み出す
 時の旅人 巡礼姿

アフリカの アウグスティネス 体制後
 教えに響く 生活の座

アウグスティネスはコンスタンティン体制の中で思索していた。その意味は何か。

ドナティスト論争というのは、その生活の座の影響を受けているのではないだろうか。そして、あるいは、そこから構想されたかも知れない「見えない教会」の観念は遠く16世紀の宗教改革を予見したのではないだろうか。

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2008年2月10日 (日)

解釈修行

短詩読み 解釈をして 話し合う
 解釈の輪が 広がる強さ

短詩を使った宣教が出来るのではないだろうか。解釈は考えなければならない。その中で、何かが伝えられていくだろう。日本人には、それが合っているのではないだろうか。

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マリアの無原罪

無原罪 祈りの時に ふと思う
 取り次ぎの管 この上なしと

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否定神学

無や空が 浸透している この国に
 否定神学 切り口はここ

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告白文学

「蒲団」なる 告白文に 込めらるる
 著者に信あり 何を語るか

田山花袋の「蒲団」は、その告白で知られている。しかし、田山はキリスト者であったという記事を読んだことがある。1回のみであった。

近代日本キリスト教文学の歴史の中でも、このことは余り言及されていないのではないかと思う。

この分野では、文学者の棄教という言葉が使われていたが、それに問題を感じる人もいる。

彼らのうちに一貫性はあるのではないか。キリスト教の方にも問題があるのではないか。そして、告白文学は、この関係の中から生まれたのではないか。そこには精神分析的発想に似たものを感じる。

人は告白して自分の殻を脱ぎ捨てていくのであろう。

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あいさつ

あいさつの 機会のがすな 神のわざ
 心込めれば 宣教になる

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2008年2月 7日 (木)

宣教の不振

宣教とは基本的には新生への招きである。それが、日本では、特にプロテスタント教会の中では、不振という声をよく聞く。洗礼を受けても、長く教会生活をしない人たちが多いらしい。憂慮されている。

しかし、新生者たちが次のステップである聖化の道を歩もうとする時、そこに、横たわっている諸問題にうまく対応できないのかも知れない。

それは教会問題であるかも知れない。教会とは何か、教派とは何か。新生者が生きていく場としての教会は何かが問われているのかも知れない。多くの教派がある。それぞれの主張の中で、正しいのは何か。グローバルな時代になって、公開の議論が可能になっている時、信仰を拘束するものが、それにうまく対応できない事情が起きているのかも知れない。

それから、不振を嘆く前提に、余りにも排他主義的に福音を捉えているかも知れない。諸宗教への対応が、余りにも単純な拒否型では、現在の日本の中で、余りにも堅苦しいのではないだろうか。

上から下へ(排他主義)、ではなくて、下から上への道(包括主義)がいいのではないだろうか。そこでは、諸宗教との対話・協力の道も開かれている。もう一つ、宗教多元主義の道があるけれど、これをどう位置づけるか、それはなお、私にとっては課題である。

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新と旧

内容は 旧のままでも システムを
 変えれば新に そこに価値あり

短歌とは自然を対象にしているということに限定されないで、対象は何でもいいと考えてもいいのではないだろうか。そう考えた時、短歌の可能性は無限に広がっていくように思う。

発明は、既に知られているもの(旧)同士の、新しい組み合わせである。

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表現

表現は 無限を目指せ その含意
 なくば問いかけ なくならぬもの

表現活動というものは、自分の殻を破る活動なのかも知れない。新しい自分に向かって、自分を脱ぎ捨てる行為なのかも知れない。

その時、その目標が無限なるものを目指していないならば、中断されるのではないだろうか。

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行動と理論

行動と 理論両立 詩の心
 理論作りも 面白きかな

賀川豊彦氏はキリスト教社会主義者として知られているが、社会主義というよりも協同組合運動の中に、自分の関心を見い出した人と思う。実践の面での大きな業績を残されたけれど、理論的関心も強かったと思う。宇宙悪の研究など、今のキリスト者で、取り組む人がいるだろうか。

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カント的生活

単調な 退屈かとも 思える生
 心一つで 世界に飛翔

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2008年2月 5日 (火)

信仰者 公を重視の 表現に
 これも愛なり 理性の出番

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国民の信

高齢化 借金多く 活気なし
 されど日本を 信ず国民

何信ず 日本の文化 かも知れぬ
 文化発信 高齢者でも

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召命

召し 感ず 魂ふるえ あせる気も
 ゆっくり急げ ケーベルは言う

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称名実践

称名の 実践を生く キリスト者
 若くして逝く 実践今は

父を呼ぶ 子を呼ぶ霊も 三位なり
 神呼ぶ声が 地に満ちるなら

称名実践のキリスト者、故橋本鑑氏は30代で亡くなられたという。

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松村克己氏

松村克己という名前は、私は割合早くから知っていた。 1 0代の後半だったと思うが、アウグスチヌスの本を読んで、感銘を受けたが、その著者が松村氏であった。
その後、東山荘での集会の取材後、バス停で、ひここと、ふたこと、松村氏と話し合った。本当にすれ違っただけの関係だ。
ただ、残された文章で、その思想をなにかと考えている。吉満義彦についても書かれていた。
あの集会では西谷啓治氏がゆっくりと何か考えながら話された。
お二人とも、ただ1回の出会いであった。

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中世の森

中世の 森避けし人 招くのは
 一致目指して 森入りし人

関西学院大学神学部の松村克己教授は印具徹氏を関西学院神学部に招いた(『ただ、ひとすじに 《告白》賛美録』印具徹著、キリスト新聞社、173-4頁)。
松村氏は中世の森を避けた人だが、それは恩師波多野精一氏の助言によるものであった。
-方、印具氏は中世の森の中に入っていった。それは恩師・橋本鑑氏の助言によるものであった。ルターを知るには中世を知らねばダメというものだった。その思いは松村氏の師の師、ケーベルが中世哲学研究の必要を語っていた時に指摘したものだった。第二バチカンよりもずっと前のことだあった。
印具氏の業績は第二バチカンのエキュメニズム路線の中で覚えられていくであろう。

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文化内開花

文化内 開花を目指す 取り組みは
 見えぬ宣教 されど進展

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民主主義

民主主義 戦後の教え 疑問あり
 維新の時の 誓文を読め

よろずごと 公論により 決すべし
 明治の人に 先見の明

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2008年2月 3日 (日)

変化

因と縁 縁は変わるよ 我が外で
 変化恐るな 因の奥聴き

因の奥に平安があれば、変化を恐れる必要はないと思います。

存在は因と縁の作用によるものと、私にも思えます。幸福とは、幸福感のことであり、幸福感とは、ある種の調和の実感なのだと思います。しかし、その調和は壊れるかも知れません。その時、あるいは不幸への不安が脳裏をかすめるかも知れません。しかし、因の奥に真実の平安があれば、変化を恐れる必要はなくなると思います。むしろ、新たなる「調和」に向けて飛躍しようと思うのではないでしょうか。

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称名

称名の あとに念仏 みな知るが
 聖書にもある 救いへの道

称名念仏は、法然、親鸞などにより、日本人にはよく知られているが、神の名前を唱えることの重要性は、聖書も教えている。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒言行録2章21節)

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シスターのイメージ

シスターの テレビドラマの その意図は
心の時代 いつのイメージ

カトリックのシスターがテレビドラマに登場している。もちろん、本当のシスターではない。
シスターのイメージは既成のものがあっても、現実はどんどん変化していっていると思う。時代錯誤的イメージが電波に乗って、伝播していくかも知れない。

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アダムの仕事

創世記 アダムの為した ことは何
 ものに名前を つけたことかな

ものに名前をつけることは大切なこと。これは、今の我々の仕事でもあるのではないか。

身の周りのものに名前をつけることから始めればよいのかもしれない。文化命令の最初は、このことなのではないだろうか。

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2008年2月 1日 (金)

無限包容雑居性

かたちある 絶対性を 持ち込めば
 絶望的な 泥沼なれど

雑居性 無限包容 その中で
 試行錯誤も 悪くはないと

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