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2008年2月19日 (火)

無名のキリスト者

「無名のキリスト者」とは誰のことか。極端に言えば、キリスト者と言われている人たち以外は、すべて「無名のキリスト者」である、といってもいいのかも知れない。そこから何が生まれるか想像すると、この言葉が何かしら重要に思えてくる。

「善意の人々」という言葉がある。不思議な言葉である。誰が善意の人なのだろうか。大部分は善意の人なのではないだろうか。悪人であっても、それは、その人に対する部分的印象であり、善意のひとかけらもないという人はいないのではないだろうか。そのな心を持っていたドストエフスキーに共感する人は多いと思う。もちろん、逆の心理もあるだろう。

「キリストによる以外に救いはない」という言葉がある。次の聖書の言葉が典拠である。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)

そして、また心で信じて義とされ、口で告白して救われる、という救いのプロセスも別の個所で記されている。
であれば、洗礼あるいは信仰告白を通して、この過程の中にある人たちがキリスト者なのだろう。

では、この過程にいない人たちは、どうなのだろうか。全員を「無名のキリスト者」とみなしてもいいのかも知れない。

もちろん、彼らも救われると断言するのではなくて、ただ、救いを神に期待し、委ねるという思いを持つことは、われわれに許されるのではないだろうか。この「許される」というところに「無名の」の言葉が対応しているとしたら、この言葉は、諸宗教対話の時代に、重要な働きをするように思う。

自分と違う諸宗教の信仰の人たちを、ただあの使徒言行録4章12節の聖句によって否定的に見ることも、あるいは原理主義的信仰者にはできるだろうが、現実に接してみれば、共感できるところを見い出すこともできる。その時、「無名の」は本当に役立つ言葉である。もちろん、それは自分の心の中にのみあるのであって、それ以外の場で使うことはできないのだけれど。現実的には、彼らはキリスト者ではないからである。

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コメント

「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14・6)とも言われている。

この部分に対して、佐藤研氏は「イエスの主張であるよりは後代のキリスト教徒の自己主張の投影であると認識され、イエスはむしろ、究極のリアリティを自ら受けた一介の人間として捉えられる」と言われている(『禅キリスト教の誕生』岩波書店、59頁)

「後代のキリスト教徒の自己主張の投影」の中で、キリスト教は成立し、成長していったともいえるかも知れない。しかし、使徒たちは、そういう表現はしないと思うけれど。聖霊を受け、聖霊に導かれて、と言うのではないだろうか。

投稿: | 2008年2月19日 (火) 21時08分

「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ローマ10章10節)と言われる。「心に信じて」は新生に、また「口で告白して」は聖化に対応しているのであろうか。

投稿: | 2008年2月20日 (水) 06時25分

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