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2008年2月19日 (火)

なぜ中世か

中世という言葉で何がいいたいのかというと、歴史的なヨーロッパの中世を再現しようというのではない。信仰と理性、その関係をもう一度、問うことが大切だということを言いたいのである。

中世とは、ヘブライのキリスト教信仰とギリシャの哲学思想との対話の中から生まれたのである。もちろん、それだけではないけれど、それが核心にあったと思う。それは信仰と理性との対話の中から中世が生まれたという洞察になる。この信仰と理性との関係を考えることは、なにも中世においてのみ重要なのではなく、現代においても大切と思う。

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コメント

ヘブライの宗教、ギリシャの哲学というけれど、プラトンの「イデア」や、アリストテレスの「不動の動者」という考え方は、宗教的であり、宗教と接しているのではないだろうか。そう考えた時に、自然神学が生まれるのかも知れない。その神は「要請」された神であり、カントの実践理性の要請による神と同じようなものかも知れない。どう考えても、体験された、啓示の神が、そこで語られているとは思えない。
だから、ギリシャの哲人たちにも宗教があるといっても、それは考えられた神であり、体験された神ではない、そこがヘブライの神との違いなのかも知れない。違いは、それでいい。ただ、違いの故に拒否して捨てるか、それをなお生かしていく道を探るか、そのへんに中世思想に入るか否かの岐路があるのかも知れない。

投稿: | 2008年2月21日 (木) 17時42分

古代ギリシャの著名な哲人たちを見て、ギリシャは哲学・理性の立場と言いきれるのだろうかと思った。
ギリシャもまた宗教の立場を持っているのではないだろうか。そんな問いが頭をよぎった。
プラトンの「イデア」、アリストテレスの「不動の動者」の思想、それらは合理的であるかも知れないが、宗教と接しているのではないか。自然神学がそこにある。
なぜこんなことを言うのか。それは禅的キリスト教の普及者イェーガー神父へのバチカンの対応を思ったからである。
禅とキリスト教の混合は困るという。しかし、中世のトマスは、混合はしなかったが、アリストテレス学徒であった。トマスからアリストテレスを除いたらどうなるだろう。「不動の動者」とは神の別名ではないだろうか。
禅とキリスト教との関係はなお明確にされねばならないだろうが、キリスト教、特にカトリックの側ではもう引き返すことができないのではないだろうか。

投稿: | 2008年2月21日 (木) 18時58分

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