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2008年3月30日 (日)

夢は何 日々問う心 大切に
 あなたの未来 その中にあり

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主体性

逆境に 抗す主体に あこがれし
 柔軟心の 共存もあれ

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不幸の幸

不幸を見て 喜び新た なぜならば
 祈りの動機 そこにあるから

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感謝の生活

感謝する 生活続く そのわけは
 神ともにいる 実感の故

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席を譲る

老人と 子を抱く親を前にして 
 どちら優先 車中の席は

席立たぬ 言い訳はある 決められず
 現状維持の 易きに流れ

決められない理由は①老人と子の二者択一はできない、②人前で善行をなすのは避けようといわれている

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2008年3月28日 (金)

刑務所

刑務所に 行きたいがため 罪犯す
 刑務所のどこ 魅力あるのか

内心の 罪の重荷に 耐えかねて
 告白の道 なきを悔やまる

犯罪の目的が刑務所に行きたいためということを、どう理解すべきなのだろうか。

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2008年3月27日 (木)

フィリオクェ再考

聖霊の 発出めぐり 東方の
 教え再考 宗教対話

聖霊は 子を証しする されどなお
 子の下になく 同じ位置付け

諸宗教 聖霊感じ 導かる
 その道を行け 改宗なくも

フィリオクェとは、聖霊が父と子から発出するという西方教会の教えである。東方では、この「子から」の個所がない。これが、どう違うのか、余り考えられてこなかったと思うけれど、実は重要に課題と思える。

フィリオクェだと、教会が聖霊を管理するといった発想が生まれそうである。それは排他主義のモデルとも思える。教会がローマ帝国の国教であれば、そんな発想も必要かも知れないが、現代は、そんな時代ではない。日本では、全く違う。

フィリオクェにはアウグスチヌスの思想の影響があるという指摘も読んだことがある。国教下の思想である。しかし、彼は、どこかで、自分の時代を超えたところの教会の形を見ていたかも知れない。それが「見えない教会」という発想だったかも知れない。ドナティスト論争では、見える教会を擁護したが、その限界も知っていたと思う。フィリオクェの彼方も考えたいたかも知れない。

不可見的教会に、アウグスチヌスの洞察を思う

フィリオクェと 違うモデルに 望み見る
 真の教会 遠い彼方に

フィリオクェは、第二バチカン以前のモデルのように思える。教会は聖霊の自由な働きを教えているが、それでも、フィリオクェは聖霊はキリストの体としての教会に従属するものと考えられそうである。これは、フィリオクェの思想である。そんな思想を読んだことはないのではあるが。

第二バチカンは、排他主義から包括主義への転換をしたと思われている。それは、フィリオクェから、東方教会のモデルへの転換に近づいたと考えれば、理解しやすいと思う。しかし、このような転換を教えているのだろうか。いや、そんなアイデアさえ、ないのかも知れない。

諸宗教対話の時代には、フィリオクェではなく、東方教会のモデルのほうが良いのではないだろうか。フィリオクェだと、その中にある排他主義により、他宗教との対話がしにくいのではないだろうか。

フィリオクェでない場合は、どうなるのか。それは、教会の外にも、聖霊の働きを認めていくという立場である。聖霊の働きは見える教会の中に限定されないという考え方であり、キリスト告白がなくとも、ありうるという
考え方である。しかし、それは究極的にはキリスト告白と一致すると思うけれど、その検証の過程に、諸宗教対話を位置づけるのである。

ウェスレーは東方教会に関心を持っていた。現代でも、聖霊論に関心を持つ人は、東方に目を向けるかも知れない。

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和解

神と人 神の許しと 和解あり
 人の側でも これも大切

神と人との和解の中には、神が人を許すという面が強く言われてきたが、同時に、人もまた神を許すという面があるのではないだろうか。犠牲とは人間の罪のために、神に捧げるという意味に考えられてきたが、十字架は、神の犠牲でもあり、神の痛みではなかったろうか。そして、その犠牲、痛みにより、人の中に許しが起き、和解も起きたのではないだろうか。

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イワンの問い

神を問う 不公平あり その世界
 二重予定も 含まれるのか

創造の 失敗謝罪 その証し
 十字架の意味 イワンは知るか

神を問う その回答の 十字架を
 知れば和解が 人においても

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ニヒリズム

ニヒリズム 喜怒哀楽の 中にあり
 生の目的 病を超えて]

生の目的はニヒリズムの彼方にある。その此岸に喜怒哀楽があるが、それは端的に病である。その境には復活の体験があるのだろう。それ以外にニヒリズムは克服できるのだろうか。復活の生と、それ以前の生との関係を少しは考えてみるのもいいけれど。

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菩薩

菩薩とは 身近に多し この言葉
 仏像見れば、過去の人とも

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環境問題

環境の 反乱前に これは何
 ポストモダンの 課題なのかも

近代の 自律は終わり されどなお
 自律の中で ポストモダンか

環境問題は人間の生き方の問題であり、それは人間の罪の問題にまで行く時に、その解決があるのではないだろうか。

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聖母マリア

改革で マリアを捨てた 新教徒
 ローマは不思議 東方もまた

プロテスタントからカトリックを見る時、マリアの位置づけが気になると思う。プロテスタントからは余り見えない東方教会の信仰もまた聖母マリアを重んじている。そこには歴史的な議論があったのだろう。

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一日一生

一日を 一生なりと 思いつつ
 生の始末を 怠らずして

生の始末と言うのは遺言のこと、後世に残すことから。そのような意識の中に、生の自覚があるのだろうと思う。

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スポーツ選手

生活の 目標立てて 集中し
 生き方指南 スポーツ選手

目標設定、訓練など、スポーツ選手の生き方に学ぶところが多いと思う。パウロも、そんなことを述べている。聖化の道を行く者も、それを参考にすべきではないか。

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無教会

人為なる 教会離れ 信捨てず
 人為の狙い 目指す眼差し

「受肉の延長」としての教会観の視界には人為的要素は見つけにくいかも知れない。しかし、「道具としての教会」観には人為的要素を見ることも出来るのではないだろうか。

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2008年3月25日 (火)

孤独

怖さ故 皆が嫌がる その中に
 神と共なる 生の充実

孤独が怖いのは、それが地獄を思わせるからであろう。交わりのない、たった一人の世界は怖い。自分は、そこで無になれないのであるから。地獄とはそんな所であろう。
しかし、神が共にいれば、孤独は生の充実を感じさせるものとなる。魂は神によってのみ平安を得るのである。アウグスチヌスが言うように、まことの平安は、ただ神の中にのみある。
孤独とは天国と地獄を思わせるものであり、弁証法的な二つの要素を含む言葉のようである。

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幸福感

幸福とは、言ってみれば、幸福感である。ヒルティーは、そう言う。同感である。

「なぜなら、結局大切なのは、なんらかの財宝を所有することではなく、これを所有することによって人が幸福を感じるかどうかである。財産を欲しがる者、名誉をよろこぶ者、享楽にふける者もやはり、彼等の求めるものをそのまま目的として欲するのではなく、彼等の目から見て目的のために欠くことのできない手段としてそれを欲するのであって、その目的とするところはやはり幸福感なのである」(岩波文庫『幸福論第一部』ヒルティ著、173頁)

そして、ヒルティは、幸福感は、「神が共にいる」ことであるという。これはウェスレーの言葉と同じである。最もよいことは、神が共にいることである、と彼は言った。同感である。

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宗教と倫理

倫理なき宗教に歴史なく
宗教なき倫理にゴールなし

よく生きるには、生きる目的、ゴールを知らなければならない。倫理は、そのゴールへの道しるべである。

ゴールとは何か。それを知り、表現していこう。

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2008年3月23日 (日)

習慣の力

習慣を 生活化する 知者となれ
 よき習慣の 実を期待せよ

義認、新生は絶対他力であり、そこに自力的要素はない。しかし、その瞬間のあと、魂の成長に関しては、意志による選択が要求される。その過程で、習慣の力を感じることができる。

よい習慣を生活化することで、将来に大きな稔りを期待することができる。その期待を日々感じることができる。

「原罪はどのような結果を人間性の善に生じたかということが問題になるとき、われわれはまずこの善とよばれるところのものを規定しなければならない。じっさい、この善とよばれるものは、三つの異なったものを意味している。第一にそれは、人間性そのもの、すなわちそれの構成的諸原理から生じて、理性をもつ生活体として定義されるところのものである。第二にそれは、人間が善に対して感じる、そして善なるものは一般にそれ自身の善を含有しているから、それなしには人間が生存することもできない自然的傾向性である。第三に、人間性の善とよばれるものは、人間が神から創造のさい与えられ、したがって恩寵としてうけた原本的な正義の賜物である。この最後の意味に解されるとき、人間性の善はその本性の一部分ではなく、それに付加されたもの、したがって原罪によってまったくなくされたのである。第二の意味に解されるとき、人間性の善は真実にその本性の一部分を形成し、したがってなくされることはなく、ただ減ぜられるのみである。すべての行為はある習性のきざしを生ずるものであって、最初の邪悪な行為はさらに邪悪な行為をなす性向を生みだし、かくして善に対する人間の自然的傾向性を弱める。しかしこの傾向性は、それにもかかわらずなお存続して、すべての善の獲得を可能ならしめるのである。最後に、本来の意味における人間性、すなわち人間の本質そのものはどうかといえば、「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」のである。このことを否定することは、人間が人間でなくなりながら、しかもなお人間であることを認めるものにほかならないであろう。それゆえ、罪は人間性になにものも付加することもなく、また人間性からなにものも除去することもない--『人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない』。 人間の形而上学的規定は不変であって、たまたまそれにおこる諸偶有性には依存しないのである」(『中世哲学の精神 上』167-168頁、文中のラテン語は省略)

この中で、二番目の善が、習慣に関係している。しかし、この善は三番目の善を獲得できない。この三番目の善が、二番目の善と共に成長していくこと、それが聖化なのだと思う。

聖化は習慣の力を無視できないのである。

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2008年3月20日 (木)

好奇心

マスコミに 踊らされるは 好奇心
 彼岸消息 好奇心なく

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2008年3月18日 (火)

新天新地

新天新地は、新約聖書と旧約聖書に言及がある。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、みはや海もなくなった」(ヨハネ黙示録21・1)

「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(イザヤ書65・17)

人生の旅は、この新天新地を目指して行くべきであろう。旅をする場合の要諦は目的地を常に明確にしていくことである。

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エキュメニズム

画一を 危惧し無視する 人もあり
 一致は既に 天にはありと

エキュメニズムに対する反対論、無視論というものがある。福音派は、どちらかというと無視論であろうか。根本主義者の中には反対論があると思う。近世において、プロテスタントが登場し、教会のさまざまな要素を教えてくれたことは有意義であったと思う。

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2008年3月16日 (日)

インターネット新聞

インターネット新聞というものがある。誰でも登録すれば、記事を掲載してもらえる。一般の世界のことである。

キリスト教界では、クリスチャントゥデイというキリスト教インターネット新聞がある。こちらも、記事の持ち込み歓迎らしい。登録記者の募集をしていた。

その経営に背景に関して、議論があるけれど、それ以外のキリスト教メディアは、このようなキリスト教インターネット新聞には関心がないのだろうか。

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無名のキリスト者

無名のキリスト者の考えはウェスレーの先行的な恩恵の教えを連想させる。

ウェスレーは生前、カルビニストとの論争を経験したが、両者を比較すれば、カルビニズムの信仰の5特質からは、カルビニストは排他主義、それに対して、ウェスレーは包括主義のように思える。

しかし、カルビニズムには、一般恩恵の教えもある。カルビニズムは特別恩恵の主張で知られているので、表看板は排他主義であろうが、あるいは、一般恩恵の教えの深まりの中で、包括主義に移行することはなくとも、それを理解することは出来るかも知れない。

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2008年3月 9日 (日)

短歌革新

究極の 関心テーマ これあらば
 短歌革新 誰でも可なり

短歌で、宗教的テーマを扱うことができると思います。人にとっての究極的関心事が、そこに語られていれば、それは「形式」の革新になるかも知れません。最近、そんな短歌を目にすることがあります。

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山田晶さん

西洋中世哲学史で業績にあった山田晶(やまだ・あきら)・京都大学名誉教授が2月29日、85歳で、逝去され、葬儀は、3月2日、カトリック由比ガ浜教会で行われたとのこと(『キリスト新聞』3月15日)。

40歳過ぎてから、山田さんの書かれたトマス・アクィナスに関する分厚い本を何冊か読んだことがありました。しかし、中でも、世界の名著20『トマス・アクィナス』(山田晶・責任編集、中央公論社)は、面白く、感銘深く読みました。トマスが対話を重視し、異論に対して、丁寧に応答していく人であったことに、改めて教えられたのでした。この姿勢は、現在でも必要ではないかと思いました。この本で、トマスに対する親近感が湧いてきたのを覚えています。この印象は、今でもなくなっていません。スコラ哲学、スコラ思想に対する印象も変わりました。

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2008年3月 7日 (金)

重層的信仰

大乗仏教が、それ以前の仏教に対して、「方便」という言葉で、自分を説明する。カトリックのマリア「信仰」に対して、プロテスタントは批判する。そこに、「マリアの神格化」という言葉も、時に使われる。しかし、教会はマリアが神とは言わないし、マリアが「神」になったら、それはキリスト教信仰ではないだろう。マリアの位置づけには、「取り次ぎ」という言葉が使われる。あるいは、民衆の中には、「マリアの神格化」的感情があるかも知れない。その時、そっと、自分の心の中では、「それは方便」という言葉を思い起こす。重層的信仰と言っても、いいかも知れない。

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包括主義

『仏教とキリスト教の中の「人間」』(谷口正子著、国文社)の中で、上田閑照氏が「刊行に寄せて」という推薦文を書いている。そこに、こんな個所がある。

「目次の項目見出しのなかで、「仏教書の中のキリスト教」、「仏教的作家の中のキリスト教」という表現が現れてくるが(この2箇所だけ)、それは、キリスト教を先理解、或は基準ないし枠組みにして仏教を見るという意味ではない。他宗教にキリスト教的なるものを見ることによって、他宗教をキリスト教への前段階と見るようないわゆる包括主義的な見方の意味ではない。そうではなくて、キリスト教の側から仏教の中へ入ってゆくことによってキリスト教が自らの心髄へと裸にされ、同時に仏教の側もその心髄へと裸にされ、それが「共通分母」の実感へと導く、そういう新しい仕方になっている。谷口さんはそのように『歎異抄』を読み、そのように賢治の童話を読む」(5頁)

包括主義という言葉が出てくるが、「いわゆる」という言葉もついている。そして、それではない、別のアプローチも書かれている。その別のアプローチは、なんと言うのだろうか。宗教多元主義というのだろうか。であれば、多元主義を否定した包括主義(いわゆる、のついた)は、余り魅力はない。後者も包括主義でいいのではないだろうか。なぜなら、「キリスト教が自らの心髄へと裸にされ」とあるからである。包括主義は、キリスト教の自己変革の可能性を否定しないと思う。しかし、多元主義と包括主義の間を模索するということが、あるいは正確な言い方なのかも知れない。

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トレーシー

デイビッド・トレーシーという人物がいる。以下、引用は、すべて、『現代神学の最前線』(栗林輝夫著、新教出版社)による。

彼は「現代カトリック神学のリベラルにおける最先端の知性を担うひとり」「彼は当初からカール・ラーナーの超越的トミズム、そして師であり同僚でもあるバーナード・ロナガンを手掛かりに、カトリック神学の現代化に意欲を燃やしてきた。そしてその課題をガダマーやリクールの解釈学、さらに最近ではポスト構造主義やポストモダン理論の受容によって成し遂げようと試みる」(206頁)という。

彼の神学流儀は対話であるともいう。「それは独善主義を排して、対話者を相互に認めあい、批判しあって統合の道を探る批判的多元主義のことと言えばいいだろうか」(206頁)との説明がある。その結果、「万有在神論(panentheism)」に行き着いたという。

実は、私は、その「万有在神論(panentheism)」という言葉に興味が引かれた。この言葉は、日本語では、それまで、「汎在神論」という言葉で紹介されてきたのではないだろうか。井上神父が使われていた。

この万有在神論について、こんな説明がされている。

「ほぼプロセス神学的な概念」「神は超越すると共にラディカルに世界に内在する。神の超越性とその受肉という内在性、その双方を正しく解釈した神概念こそ、実にキリスト教が歴史的に告白してきた「真ノ神ニシテ、真ノ人」の信条なのだ」(206,207頁)

その神は「内在と超越の弁証法的様態の中に顕われる」(205頁)とも言われる。このあたりは、西田哲学をキリスト教的に読んでいる、小野寺功氏の表現にも近いものを感じる。

もし、トレーシーが、もっと紹介されれば、日本の中でも、関心を持つ人が増えるかも知れない。宗教の神学や宗教間対話に共鳴する人には示唆があるらしく、日本のキリスト教界では知られていないが、仏教学者は、しばしば、その名を言及しているともいう。

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2008年3月 6日 (木)

ああ、カルビニストたち

予定説 おびえて励む パイオニア
 時移り今 再建主義か

再臨の 前に王国 築かんと
 強き信仰 昔も今も

生活の 全領域を 主に捧ぐ
 世俗の中で 僧の如くに

パイオニアとは、「資本主義のパイオニア」の意味です。ウェーバーの名著からの思いです。

再建主義とは米国の「キリスト教再建主義」です。この主張者のローザス・ジョン・ラッシュドゥーニーは、アブラハム・カイパーやコルネリウス・ヴァン・ティルの影響を受けたといいます。だから、カルビニストの範疇に入るかと思いますが、あるいは逸脱しているかも知れません。

ただ、そこには、ウェーバーの名著による、二重予定説による「おびえ」からの献身ではなく、別の意識が働いているように思います。

再建主義には、極端な形もあるようですが、ある意味で、再臨信仰の実践にも思えます。王国は、「千年王国」ですが、彼らは「後千年王国説(再臨前千年王国説)」に立つようです。

前千年王国説の方が聖書的という説を読むこともありますが、その違いが、余りよく分かりません。

ただ、聖霊降臨からの教会時代を、ある意味で「千年王国」と思えば、そして、その完成の時に再臨があると解釈できるなら、そういう視点に立てば、再建主義には、やはり再臨信仰が働いているように思います。

しかし、私には、そこまで「強い信仰」は持てないように思います。

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目的と目標

目的と 目標を書く 単純だ
 生活の中 隗より始む

目的は 因に呼応す 因調べ
 正しき自覚 あれば憂えず

目標は 具体性帯ぶ 動機づけ
 生活律す これあらばこそ

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日本神学

欧米の 神学学び 来たれども
 足元は別 一顧だになし
 

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春の気配

青空に 綿雲浮かぶ 春近し
 描かん画家の 心境迫り

春とは寒の中の暖の気づきである。実に快いものである。

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岩下・塚本論争

論争の 出会い今見る 別角度
 包括の目の 射程にあるか

岩下壮一と塚本虎二が、『聖書之研究』で論争したことがありました。岩下神父の立場はカトリックに対する偏見を正そうとするものですが、塚本の意見を読んでも、そんな思いが日本人キリスト者にありそうにも思われます。

第二バチカン以後の今は、現代カトリックの意識は、岩下神父とは別の角度から無教会に関心も持てるのではないかと思います。エキュメニズムには無教会も入っていると思います。

武田友寿さんが内村鑑三に積極的関心がありました。遠藤周作さん、矢代静一さんにも、無教会への消極的コメントがありました。

第二バチカンの精神は無教会を射程の中に、積極的に見るべきと思うのですが、さて、誰がいるだろうかと見回してみた時、誰もいないように思います。

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現代神学

『現代神学の最前線 「バルト以後」の半世紀を読む』(栗林輝夫著、新教出版社)という本がある。なかなか面白かった。知らないことがたくさん書かれていた。ということは、現代神学に関する本が余り邦訳されていないということなのだろうか。

この本は特に米国の現代の神学の潮流を紹介している。多様な人たちが、多様な切り口から神学している。その著書を発表している。そのような問題意識が紹介されれば、日本の教会の関心もまた高まるかも知れない。神学の巨匠たちの本は、今も書店にならぶ。それを学ぶのが神学という理解が、まだあるのかも知れない。しかし、自分で神学を作ろうという意識は、その中では、どれくらい生まれるのだろうか。

この本を読むと、たとえ巨匠たちには比較できなくとも、自分たちの神学を持とうとしている人たちがたくさんいることに、神学徒は勇気づけられるのではないだろうか。そして、そんな切り口が紹介されれば、自分の選択の中で、その道を進んでみようという人も起きるかも知れない。その時、やはり日本とかアジアというものを、どう見ていくか、それがなければ前進しないだろうけれど。

現代神学は、日本では、まだまだ未知の領域かも知れないと思った。考えてみれば、不思議なことではある。人材不足とは言いたくないが、著者は、その意味では貴重な存在といえると思う。

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2008年3月 4日 (火)

「お伽噺」

明治生まれの著名なジャーナリストであった長谷川如是閑(本名・万次郎)には、自叙伝『ある心の自叙伝』がある。

それによると、如是閑は、「青年期を静養時代で過ごさなければならなかった」が、「それでも宗教を求める淡い心があったらしい」。深川・冬木町の閻魔堂橋の畔の寺「深川の閻魔堂」に法話を聞きにいったり、新富町あたりの橋の畔にあった「福音教会」のバイブルクラスに出席したりしていた。そこでは、アメリカ人の牧師が「お伽噺のような聖書の講義をするのに心を打たれた」。如是閑は、その牧師の熱心さには敬服していますが、講義の内容は「お伽噺」として片づけている。

この部分を読むたびに、如是閑は「非神話化」という解釈の方法を知らなかったのかも知れないと思う。あるいは、米人牧師が、そうであったのかも知れない。聖書は、弟子たちの解釈の中で書かれた部分もあるのだから、その部分に関しては解釈しなければ、正しく読むことにはならないのだと思う。「そのまま」という人においても、よく読むと、聖書の尊重の意味で、解釈を否定していない場合もある。

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清掃

清掃は 外のことだが 内もまた
 心の掃除 身の回りから

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無限包容雑居性

壁なのか 無限包容 雑居性
 文化に開花 その中でのみ

日本文化の特徴は、無限包容雑居性と言われる。かつて芥川龍之介のキリシタン関連の小説、遠藤周作の小説でも、これが壁とみられていた。しかし、第二バチカンで、この壁が溶け出したのではないだろうか。文化内開花という言葉と共に。これはカトリックの新しい挑戦なのではないだろうか。

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宗教多元主義の課題

多元主義 神中心の 類型で
 信の内には 課題を感ず

第二バチカン以降、救いの理解に関して、カトリックの大きな流れは排他主義から包括主義に移行したといわれる。「無名のキリスト者」というカール・ラーナーの立場が、その典型と言われる。しかし、多元主義には行かないと思う。

この排他主義から包括主義への移行というのは、この第二バチカンによる変化を総括できるキーワードのように思う。

遠藤周作氏の最後の大作『深い河』は、多元主義的という解釈による、それへの批判もあったが、某カトリック信徒による評論の中で、小説の一シーンを取り上げ、いやそうではないという反論もあった。多元主義は、カトリック信仰の範囲を超えているという理解が、そこにはあると思うし、私もそう思う。

しかし、多元主義もまたキリスト教信仰の範囲の中という理解もある。『日本の将来とキリスト教』(古屋安雄著、聖学院大学出版会)の中(100~102頁)に、その説明がある。

私は、キリスト教信仰は、排他主義、包括主義までは認められるが、多元主義は、もうキリスト教ではないと思うけれど、その三者を神の三位一体に対応する類型として認められるという。多元主義容認の根拠が、神の三位一体であるという。これは、新しい課題である。

しかし、それにしても、第二バチカン、宗教多元主義をもたらした「問い」というものが、見えてきそうである。巨大な問いである。宗教多元主義の旗手であるジョン・ヒック氏が、その問いを明確にしているように思う。この問いの重みを思う時に、現代神学の流れがいくらか分かるような気がする。

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2008年3月 3日 (月)

本願ぼこり

他力論 本願ぼこり 他宗にも
 信の類型 東西同じ

本願ぼこりは浄土真宗の周辺におきた議論で、キリスト教にも同じような発想がありました。

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2008年3月 2日 (日)

無執着

因と縁 縁が変われば 変化あり
 執着せずに 変化に乗って

因は不変でも、縁は可変なので、人生には変化が生まれる。その変化は止められないし、止めようとしないことが肝要である。

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聖霊派

聖霊派 異言と結び 混乱す
 その着眼は 正しけれども

教会の誕生、原点はペンテコステである。そこに目を向けるべきという主張は正しいと思う。異言問題のために、その正しさが看過されてはならないと思う。混乱とは聖霊派内部の混乱ではなく、その周辺の混乱である。

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トマスの心

トマス読む 異論反論 ていねいで
 問答無用 心にあらず

『神学大全』は異論に対して、ていねいに自説を述べている。問答無用ではない。

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