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2008年3月 7日 (金)

包括主義

『仏教とキリスト教の中の「人間」』(谷口正子著、国文社)の中で、上田閑照氏が「刊行に寄せて」という推薦文を書いている。そこに、こんな個所がある。

「目次の項目見出しのなかで、「仏教書の中のキリスト教」、「仏教的作家の中のキリスト教」という表現が現れてくるが(この2箇所だけ)、それは、キリスト教を先理解、或は基準ないし枠組みにして仏教を見るという意味ではない。他宗教にキリスト教的なるものを見ることによって、他宗教をキリスト教への前段階と見るようないわゆる包括主義的な見方の意味ではない。そうではなくて、キリスト教の側から仏教の中へ入ってゆくことによってキリスト教が自らの心髄へと裸にされ、同時に仏教の側もその心髄へと裸にされ、それが「共通分母」の実感へと導く、そういう新しい仕方になっている。谷口さんはそのように『歎異抄』を読み、そのように賢治の童話を読む」(5頁)

包括主義という言葉が出てくるが、「いわゆる」という言葉もついている。そして、それではない、別のアプローチも書かれている。その別のアプローチは、なんと言うのだろうか。宗教多元主義というのだろうか。であれば、多元主義を否定した包括主義(いわゆる、のついた)は、余り魅力はない。後者も包括主義でいいのではないだろうか。なぜなら、「キリスト教が自らの心髄へと裸にされ」とあるからである。包括主義は、キリスト教の自己変革の可能性を否定しないと思う。しかし、多元主義と包括主義の間を模索するということが、あるいは正確な言い方なのかも知れない。

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コメント

排他主義と包括主義はつながっている。共に、啓示に対する応答を意味している。しかし、多元主義に、排他主義・包括主義とのつながりはないように見える。第二バチカンで、排他主義から包括主義への転換があり、教会に大きな変化が生まれたが、それは変革ではあるかも知れないが、革命ではない。しかし、その線で、多元主義と結ぶことはできないように思える。では、多元主義とは何であろうか。
排他主義は一見、信の立場である。いや、一見ではなく、正しく、真に信の立場と考える人があってもいい。しかし、表現の限界を思う時、排他主義は、「一見、信」になる可能性を排除できないだろう。そして、その対極にあるのが、多元主義かも知れない。多元主義の中に、啓示に対する応答を見ることができるだろうか。もし、あるとすれば、それは排他主義が「一見、信」の立場におちた時に、あるいは生まれるかも知れない。多元主義に、啓示に対する応答を直接的に感じることができない。
その関係は、あるいは信仰と理性の関係のようにも思える。多元主義は理性の立場である。排他主義が「一見、信」の立場に移行する時、多元主義には意味がある。信仰が迷信におちた時、理性は意味を持つように。
排他主義・包括主義は信仰の立場、そして、多元主義は理性の立場と見るならば、その関係の中で、多元主義も必要なのだということになるだろう。
排他主義は、信の立場であっても、「一見、信」の立場になる可能性を常に帯びている。その時、真の信の立場は、排他主義とは違う多元主義をも認める、両者の弁証法的統合の立場であるかも知れない。排他主義と多元主義との弁証法の中に、真の信を求めていくこと、それが問われているような気がする。

投稿: | 2008年3月 9日 (日) 14時21分

宗教多元主義とは、どちらかというと、自然神学に関係しているのではないだろうか。自然神学は究極的な啓示にまでは届かないといっても、その必要性はあるかも知れない。自然神学を、その必要性をどうみるか、そこに多元主義への眼差しがあるのかも知れない。

投稿: | 2008年3月 9日 (日) 17時06分

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