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2008年3月23日 (日)

習慣の力

習慣を 生活化する 知者となれ
 よき習慣の 実を期待せよ

義認、新生は絶対他力であり、そこに自力的要素はない。しかし、その瞬間のあと、魂の成長に関しては、意志による選択が要求される。その過程で、習慣の力を感じることができる。

よい習慣を生活化することで、将来に大きな稔りを期待することができる。その期待を日々感じることができる。

「原罪はどのような結果を人間性の善に生じたかということが問題になるとき、われわれはまずこの善とよばれるところのものを規定しなければならない。じっさい、この善とよばれるものは、三つの異なったものを意味している。第一にそれは、人間性そのもの、すなわちそれの構成的諸原理から生じて、理性をもつ生活体として定義されるところのものである。第二にそれは、人間が善に対して感じる、そして善なるものは一般にそれ自身の善を含有しているから、それなしには人間が生存することもできない自然的傾向性である。第三に、人間性の善とよばれるものは、人間が神から創造のさい与えられ、したがって恩寵としてうけた原本的な正義の賜物である。この最後の意味に解されるとき、人間性の善はその本性の一部分ではなく、それに付加されたもの、したがって原罪によってまったくなくされたのである。第二の意味に解されるとき、人間性の善は真実にその本性の一部分を形成し、したがってなくされることはなく、ただ減ぜられるのみである。すべての行為はある習性のきざしを生ずるものであって、最初の邪悪な行為はさらに邪悪な行為をなす性向を生みだし、かくして善に対する人間の自然的傾向性を弱める。しかしこの傾向性は、それにもかかわらずなお存続して、すべての善の獲得を可能ならしめるのである。最後に、本来の意味における人間性、すなわち人間の本質そのものはどうかといえば、「人間性の原本的善は罪によってなくされることも、減ぜられることもない」のである。このことを否定することは、人間が人間でなくなりながら、しかもなお人間であることを認めるものにほかならないであろう。それゆえ、罪は人間性になにものも付加することもなく、また人間性からなにものも除去することもない--『人間にとってその本性であるものは、罪によって人間から除去されることも、また人間に与えられることもない』。 人間の形而上学的規定は不変であって、たまたまそれにおこる諸偶有性には依存しないのである」(『中世哲学の精神 上』167-168頁、文中のラテン語は省略)

この中で、二番目の善が、習慣に関係している。しかし、この善は三番目の善を獲得できない。この三番目の善が、二番目の善と共に成長していくこと、それが聖化なのだと思う。

聖化は習慣の力を無視できないのである。

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