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2008年3月27日 (木)

フィリオクェ再考

聖霊の 発出めぐり 東方の
 教え再考 宗教対話

聖霊は 子を証しする されどなお
 子の下になく 同じ位置付け

諸宗教 聖霊感じ 導かる
 その道を行け 改宗なくも

フィリオクェとは、聖霊が父と子から発出するという西方教会の教えである。東方では、この「子から」の個所がない。これが、どう違うのか、余り考えられてこなかったと思うけれど、実は重要に課題と思える。

フィリオクェだと、教会が聖霊を管理するといった発想が生まれそうである。それは排他主義のモデルとも思える。教会がローマ帝国の国教であれば、そんな発想も必要かも知れないが、現代は、そんな時代ではない。日本では、全く違う。

フィリオクェにはアウグスチヌスの思想の影響があるという指摘も読んだことがある。国教下の思想である。しかし、彼は、どこかで、自分の時代を超えたところの教会の形を見ていたかも知れない。それが「見えない教会」という発想だったかも知れない。ドナティスト論争では、見える教会を擁護したが、その限界も知っていたと思う。フィリオクェの彼方も考えたいたかも知れない。

不可見的教会に、アウグスチヌスの洞察を思う

フィリオクェと 違うモデルに 望み見る
 真の教会 遠い彼方に

フィリオクェは、第二バチカン以前のモデルのように思える。教会は聖霊の自由な働きを教えているが、それでも、フィリオクェは聖霊はキリストの体としての教会に従属するものと考えられそうである。これは、フィリオクェの思想である。そんな思想を読んだことはないのではあるが。

第二バチカンは、排他主義から包括主義への転換をしたと思われている。それは、フィリオクェから、東方教会のモデルへの転換に近づいたと考えれば、理解しやすいと思う。しかし、このような転換を教えているのだろうか。いや、そんなアイデアさえ、ないのかも知れない。

諸宗教対話の時代には、フィリオクェではなく、東方教会のモデルのほうが良いのではないだろうか。フィリオクェだと、その中にある排他主義により、他宗教との対話がしにくいのではないだろうか。

フィリオクェでない場合は、どうなるのか。それは、教会の外にも、聖霊の働きを認めていくという立場である。聖霊の働きは見える教会の中に限定されないという考え方であり、キリスト告白がなくとも、ありうるという
考え方である。しかし、それは究極的にはキリスト告白と一致すると思うけれど、その検証の過程に、諸宗教対話を位置づけるのである。

ウェスレーは東方教会に関心を持っていた。現代でも、聖霊論に関心を持つ人は、東方に目を向けるかも知れない。

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