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2008年4月29日 (火)

老病

老病も 絶対無への 道しるべ
 十字架比べ 不幸も軽し

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中世スコラ思想

中世スコラ思想はギリシャ哲学とキリスト教信仰との結合であったが、そこで自然神学から啓示神学へと理性で追究していく過程は日本人には無用なのではないだろうか。むしろ、それらを省略して、西田哲学の論理で、究極的なものへと一気に飛んで行った方が、日本人には受け入れやすいのではないだろうか。

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遺言

生き方は 遺言なりとぞ 思い知る
 後を汚さず きれいな別れ

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2008年4月27日 (日)

信仰義認

カトリック教会とルーテル教会で信仰義認に関する合意声明が出たのは、もう大分前のことである。
キリスト教系の新聞にその全文が発表されたが、その後、この声明についての話し合いなど、今までないのではなかろうか。もちろん、神学の専門雑誌は取り上げている。
カトリック教会では義化という言葉が使われ、そこには義認への批判が込められていたようだ。義化とは聖化の要素を含めたものだろうか。そこには、ルターは、聖化につながらない義認を主張したとの解釈があったのだろうか。もし、そうだとしたら、それは誤解であろう。そうでなければ、ルターを祖とするプロテスタント教会の中に、どうして、ウェスレーが出てくるのだろうか。
信仰義認に関しては、双方に誤解があったのではないだろうか。しかし、その誤解が何であったか、世界の教会は十分、煮詰めた議論をしているが、日本の教会には、そういう意識はないようである。

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ニヒリズム

ニヒリズム この国深く あるを知る
 課題は今も しずまれば知る

絶対無 その解決の 答なり
 理論に生命 あれば真なり

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2008年4月25日 (金)

管理

比較して 貧の思いを 打ち捨てて
 足下の富の 嘆き聞くべし

我々は比較して、自分たちの貧困であることを感じるかも知れない。しかし、我々に委ねられているものを正しく管理していないのが現状ではないか。

「足下の富」は、こうした現状を嘆いている。正しく管理していない我々を呪っているのではないだろうか、と思う。

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2008年4月24日 (木)

中国

中国は 世界の工場 誇らしげ
 世界対応 責任重し

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大地

西洋の 大地の教え 説く教師
 大地違えば 関心湧かず

大地性 そこへの突破 あればなお
 動機かすかに 維持されるかも

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絶対無

絶対無 絶対他力 要請す
 矛盾同一 存在類比

神の場が絶対無であれば、そこにつながるには、人の側では、絶対他力以外にないのではないか。絶対無には、そういう思想が込められているのではないか。
禅は自力救済というが、悟りの内容を考えれば、絶対他力になっているのではないか

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2008年4月22日 (火)

精神運動

政治でも 社会でもいい 中心は
 精神にあり 昔の人は

ガンジー、賀川豊彦を思う。

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第二の宗教改革

改革を 徹底させよ 改革派
 無教会にも その動機あり

対極は 無教会対 ローマかな
 矛盾同一 歴史の彼方

場を思う 時空限定 尊重す
 第二バチカン 稀有な機会か

カルビン系の改革派もルター派の改革の徹底という意識があると思います。また、無教会にもあると思います。しかし、無教会は、その対極にカトリック教会を考えていることは予想できます。この矛盾が一つになるのは、歴史の彼方、再臨の時であるかも知れません。内村は、無教会の完成は再臨の時と、言っていたと思います。

しかし、内村の達観は、日本という場を重んじたことでした。カトリック教会も第二バチカンで、この意識を受け入れたと思います。「福音を文化の内に」という第二バチカン後のカトリックの意識は、内村の意識と触れていると思います。そして、この二つが、絶対矛盾的自己同一として、触れ合う場が、真に創造的な場であるかも知れません。

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聖火

守られる 聖火は悲し 善光寺
 同じ信徒の 苦難を思う

聖火ランナーの起点を辞退した善光寺、その思いは分かります。

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2008年4月18日 (金)

物体的なもの

「物体的なものを逐うことは、霊自身を軽蔑し、ひいては父なる神を軽蔑していることに外ならない」(『プロティノス』鹿野治助著)

「物体的なもの」というのは、諸行無常の世界の実体的なものであろうか。その実体は、可変的であり、その現実をしっかり認識せよという点では、仏教もキリスト教も同じ心を持っていると思う。

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2008年4月17日 (木)

ロシアの少年

神を問え 人は集まる なぜならば
 我が実存の 答えあらんと

日常の 会話の中に 深き問い
 我が日本にも ロシアの子らを

ドストエフスキーの小説から。

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責任

責任は 因にあれども 縁になし
 縁は天命 ただ黙すのみ

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世を救う 信の力を 教えられ
 信は我がため のみにあらずと

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視点

義認から 聖定を経て 聖化あり
 その変遷を すべて学ばん

義認はルター、聖定はカルビン、聖化はウェスレーと、それぞれ学ぶところがある。

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高齢者の生

高齢者 この世引退 使命どこ
 あの世目当てに 生きられるなら

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個と普遍

個の中に 普遍生きなば 個は育つ
 育たぬ時に なぜかと思う

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キリシタンの模範

キリシタン その重き範 見るならば
 励ましよりも 比較し萎えん

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カトリシズム

包容か カトリシズムの 言葉にて
 キリスト教を 語らんと欲す

吉満義彦の言葉に、カトリシズムの言葉で、私はキリスト教を語ろうとしているのだという言葉があった。

プロテスタントとの対抗意識の強かった師、岩下壮一とは違った意識があったと思う。

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あと何年

この世には あと何年か 思うたび
 日々遺言書く 思いで生きる

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2008年4月15日 (火)

存在の類比

中世のスコラ学の中で、存在の類比という言葉があった。アナロギア・エンティスとも言われる。バルトは、この信仰思想を嫌い、アナロギア・フィデイという言葉「信仰の類比」で、自分の立場をあらわした。

スコラ学が自然神学から入る時、その限界は明確に言うのだが、それでも理性による神への到達が言われているように思ってしまう。啓示が、そこでは本来の意味を失ってしまうかも知れない。この危惧があるのだろうと思う。

しかし、存在の類比は、そういう思想なのだろうか。これは、肯定神学と否定神学との共存を認める思想なのではないだろうか。そう考えれば、そこには絶対矛盾的自己同一の立場があるように思う。西田哲学と中世スコラ学とは共鳴しあっているように思うのである。

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2008年4月13日 (日)

新生

新生とは私の内における神の誕生であり、同時に、神の内における私の誕生でもある。この「絶対矛盾的」ともいえる自己同一性が、新生の現実であり、その両方が同時に言われなければいけないのではないであろうか。

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神化について

聖化、栄化という言葉には、やはり自分、我の視点が中心にあるのではないだろうか。しかし、神化は、神の方に重心が置かれているのではないであろうか。その違いに気づくことも大切と思う。そして、神化の意味を味わうのもいいかもしれない。

聖化、栄化の場合は、「私」が主語になるが、神化の場合には、「私」は目的語になるのだろう。この転換は重要と思う。

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死についての瞑想

神が万物を創造された時、その中には人間もいた。自然界を眺めた時、個々の人間には誕生の時があり、死の時もある。生物学的な死は、創造のはじめにもあって不自然ではないと思うが、同時に、死は、罪の結果ともいわれている。この罪は、創造の初めにあったものではない。従って、死には、この二つの意味がある。

生物学的な死と、罪の結果としての死。この二つが、本来は別のものと思われるのだが、関係しているようにも思える。

罪の結果としての死を許されて永遠の生命をいただくものとなっても、生物学的な死がなくなるという意味ではない。もちろん、永遠の生命を聖霊と考え、聖霊は、この地上の歩みの中で与えられるものという理解がある。永遠の生命が死後に与えられるものと考えれば、それが生物学的な死と時間的にだぶることはないので、問題はないかも知れない。

永遠の生命とは、神の生命であり、そこでは、生物学的生命は存在しないのだろう。なぜなら、生物学的生命に死がないとは考えられないからである。

だから、神の新しい創造は、これまでの創造とは違うのだとも言えると思う。復活の生命には死がない。だからそれ(復活の生命)は、生物としての生命では、ないとも言える。

神化により、神の命の中へ観念になる「私」は、終わりの日に、復活の日に、その観念が具体化、個別化されるのであり、今のような生物としての体が与えられるのではないかもしれない。生物としての体はくちるのが本質であり、くちない体は生物の体とは思えないからである。

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2008年4月 8日 (火)

聖霊中心

イエスは、人の子に逆らうものは許されるが、聖霊に逆らうものは許されない、と言われた。

「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」(ルカ福音書12章10節)。

人の子は、今では、いわゆるキリスト教会であろうか。一方、聖霊はキリスト教会を超えた全人類に及んでいるものだろうか。教会の外にいても、この聖霊への正しい対応により救いへの道が容認されている、との意味であろうか。

イエス(教会)は見えるが、聖霊は見えない。教会は聖霊の下にあるはずだが、イエスの権威により、聖霊の上にあると考えれば、他宗教への眼差しが包括主義ではなくなり、排他主義になる。

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2008年4月 6日 (日)

うつ

生きる意味 どこにもないと うつになる
 リタイアの人 難問抱え

生きる意味 死を前にして ないと知る
 ただ復活に 解決あらん

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非神話化

我々が福音書を読むとき、とてもではないが、非神話化しなければ読めない個所があるかもしれない。しかし、イエスの遺体がなかったということは、非神話化できるのだろうか。これが歴史的事実であるとすれば、どう説明できるのだろうか。

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解釈

二重性 故に解釈 世人たち
 更に解釈 それでいいかと

もし、私が日本の軍人であれば、二つの軍歌の中で生きたいと思う。それは、「愛国行進曲」と「海ゆかば」である。この二つは、戦争との関連づけのため、忘れられつつあるかも知れないが、名曲と思う。時に、右翼の街宣車で、愛国行進曲が流れることもあるけれど、歌詞を読めば、今でも、何か訴えるものを持っていると思う。この二つは、解釈の中で否定されても、もう一度、解釈して、キリスト教的に解釈して、仕立て直しをしたら、今でも着られる服になるかも知れない。日本人の魂を鼓舞する曲になるかも知れない、と思う。

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無所有

無所有の 富の大きさ 知るならば
 この世はすぐに 天国となる

我々は無所有に対する恐れの中で生きている。天国を逆の方向の中で探している。しかし、天国は、そこでは現れてこないであろう。

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2008年4月 3日 (木)

聖霊の神学

共感の 諸点は多し 吉満の
 哲学思索 現代版か

小野寺功著『聖霊の神学』(春風社)を読みました。共感する所は多くありました。戦前であれば、カトリック哲学者として吉満義彦がいましたが、第二バチカン後の現代では、著者のような思索の方向がカトリック哲学者の、期待される姿なのかも知れません。

著者はカトリシズムの展開を考えておられるようですが、関心の向け方、また対話の相手などを見れば、プロテスタントの読者としても抵抗なく、多くの示唆を与えられつつ、読むことができると思います。エキュメニズムというものは、こういう思索の対話を通して深まるものかも知れません。

著者に共鳴し、対話の輪を広げていける学徒が出てくることを期待しています。

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弁証法

弁証法とはヘーゲルの教えた論理として知られている。しかし、ヘーゲルは、この論理をどこで知ったのだろうか。キリスト教の三位一体の教理との関係が示唆されている。きっとそうなのだろう。しかし、キリスト教が背景にあるということは、一般には知られていない。

弁証法は正・反・合の流れの中で歴史的に発展していくという考え方である。

キリスト教的には、どう考えるべきなのだろうか。

正とは、神の創造世界、反とは、人間の罪とその贖いの過程、そして合とは、聖霊降臨による歴史形成の時代であろうか。

弁証法的歴史観は、きっと、その時代の人々の解釈を容認する幅を持つのかも知れない。なぜなら、聖霊の時代というのは、ペンテコステ以降の全時代であろうけれど、教会史を眺めれば、聖霊を強調した人もいるし、団体もあった。今でも南米で、カトリックからペンテコステ教会に信徒が移動しているという現象があるらしいが、そこにも、カトリック教会が聖霊の働きを重視し、観点をそちらにシフトしていかなければならないという要請があるように思う。

弁証法的歴史思考は、それぞれが課題を取り入れて、展開していけばいいのである。しかし、その時、自分の立場は「合」の立場としなければならないだろう。キリスト教運動のカギは、この「合」の立場が聖霊の立場であるということであり、それは既に、まもなく、その記念の日がくる「ペンテコステ」の祝日で、客観的に表明されているのだと思う。

もし、現代日本に、それを当てはめれば、近代日本は「正」の立場、そして、現代日本の立場は「反」の立場、「自分」の立場は「合」の立場でなければならないかも知れない。ここで現代日本の立場に立つのであれば、新しい有効な運動は提起できないからである。現代人として生きつつ、現代を超える立場に立っての運動を提起することが大切と思うが、それはキリスト教思想の中では可能なのである。なぜなら、歴史的時代は、それがどんなに理想的であろうとも、「神の国」(歴史の目指す終局の世界)ではないからである。

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包括主義

先行の 恩恵のみで 救わるか
 排他主義との 調整課題

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林住期

林住期 悟りを求め 伝えたら
 家住・学生 明るく照らす

定年・引退の林住期には、林住期にふさわしい使命があるのだろう。それは悟りを求め、悟りを伝えることかも知れない。

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2008年4月 1日 (火)

西田哲学

禅修行 その体験を 根底に
 西哲探る 神の用語で

西田哲学の中には、東洋と西洋との出会いがあるのだろう。その宗教哲学は、神という用語を自由に駆使しているけれども、仏教的要素があるのだろう。西洋哲学の用語を用いつつ、仏教哲学を展開していったのだろうか。

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団塊世代

林住期 悟り開かん 死出準備
 第2家住期 悟りなきまま

林住期は、第2家住期ではない。悟りを開く期間であると思う。林住期を無駄に過ごすなかれ。

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家系図

家系図の 調査仕事の 人いるか
 先祖を知るは 我を知るなり

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聖霊神学

ウェスレーと 『幸福論』の 第3部
 調べは同じ 今の人にも

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仕事

いくつかを 同時進行 仕事術
 気分転換 仕事中にも

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仏基の対話

ダンマとは 聖霊のこと T氏言う
 その命題を 更に煮詰めよ

T氏とは玉城康四郎氏のこと。個人的な信念であったというが、どうなのであろうか。

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高校野球

聖の文字 甲子園行く その意味を
 思う人あれ きっかけとなれ

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幸福論

ヒルティの 名著感動 よく読めば
 キリスト教の 視点動かず

神のそば近くにあることが最も幸福なのだというが、
それはウェスレーと同じ意見。

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簡素生活

生活の 簡素化めざせ その中で
 宝とゴミの 選別をせよ
 

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