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2008年4月 3日 (木)

弁証法

弁証法とはヘーゲルの教えた論理として知られている。しかし、ヘーゲルは、この論理をどこで知ったのだろうか。キリスト教の三位一体の教理との関係が示唆されている。きっとそうなのだろう。しかし、キリスト教が背景にあるということは、一般には知られていない。

弁証法は正・反・合の流れの中で歴史的に発展していくという考え方である。

キリスト教的には、どう考えるべきなのだろうか。

正とは、神の創造世界、反とは、人間の罪とその贖いの過程、そして合とは、聖霊降臨による歴史形成の時代であろうか。

弁証法的歴史観は、きっと、その時代の人々の解釈を容認する幅を持つのかも知れない。なぜなら、聖霊の時代というのは、ペンテコステ以降の全時代であろうけれど、教会史を眺めれば、聖霊を強調した人もいるし、団体もあった。今でも南米で、カトリックからペンテコステ教会に信徒が移動しているという現象があるらしいが、そこにも、カトリック教会が聖霊の働きを重視し、観点をそちらにシフトしていかなければならないという要請があるように思う。

弁証法的歴史思考は、それぞれが課題を取り入れて、展開していけばいいのである。しかし、その時、自分の立場は「合」の立場としなければならないだろう。キリスト教運動のカギは、この「合」の立場が聖霊の立場であるということであり、それは既に、まもなく、その記念の日がくる「ペンテコステ」の祝日で、客観的に表明されているのだと思う。

もし、現代日本に、それを当てはめれば、近代日本は「正」の立場、そして、現代日本の立場は「反」の立場、「自分」の立場は「合」の立場でなければならないかも知れない。ここで現代日本の立場に立つのであれば、新しい有効な運動は提起できないからである。現代人として生きつつ、現代を超える立場に立っての運動を提起することが大切と思うが、それはキリスト教思想の中では可能なのである。なぜなら、歴史的時代は、それがどんなに理想的であろうとも、「神の国」(歴史の目指す終局の世界)ではないからである。

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