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2008年4月29日 (火)

中世スコラ思想

中世スコラ思想はギリシャ哲学とキリスト教信仰との結合であったが、そこで自然神学から啓示神学へと理性で追究していく過程は日本人には無用なのではないだろうか。むしろ、それらを省略して、西田哲学の論理で、究極的なものへと一気に飛んで行った方が、日本人には受け入れやすいのではないだろうか。

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コメント

中世はキリスト教の森である。この森の前で、その中に入っていこうかどうか、私はためらう。迷うかも知れないからである。

中世の森の中に入る動機は、キリスト教を知ろうとすることだろう。しかし、この森を知って、それでキリスト教が分かるのだろうか。この森全体を知らなければ、キリスト教は分からないのだとしたら、私はキリスト教を知ることを断念するだろう。

キリスト教は回心、瞬間的回心の時に、分かるのだと思う。それは、あたかも悟りにも似ている。もちろん、全部が分かるという意味ではなくて、分かる条件が整ったという意味である。

その経験がない時には、知識がどれほど多くとも、やはりキリスト教は分からないのだと思う。回心は信仰義認、新生、聖霊の訪れ、聖化などと結びついている。聖霊に教えられよ、とイエスは言っているのである。

西洋の中世はキリスト教の時代であった。「暗黒の中世」という言葉しか知らない人に、別の中世があることを知らせる意味での、この森の紹介は意味があるだろう。しかし、今の日本人に、この森を知る動機があるのだろうか。動機のない所には、行為が生まれない。中世の森の中に分け入る人々の動機は何なのだろうか。

歴史的中世が、キリスト教と、当時の思想との関係の中で生まれたという形を思う時、今の日本で、この思想とは何であろうか。ギリシャ思想なのだろうか。

中世再考は、日本の、キリスト教の外の思想との対話への奨励を意味するのであれば、それは、第二バチカンの精神とも合致して、意味ある試みになるだろう。そして、こういう試みは、既に、相当進んでいるのだと思う。

投稿: | 2008年4月29日 (火) 17時07分

ギリシャ思想に実存的モチーフはあったのだろうか。しかし、釈迦の宗教は、それが基本になっている。であれば、仏教とキリスト教との対話の中で、キリスト教が仏教から学ぶ点はあると思う。実存的モチーフを教えの中に生かすことである。それは、現在の西洋的キリスト教とは違った、日本人にも受け入れられやすい教えになるかも知れない。遠藤周作氏が最後の大作『深い河』に、インドを舞台に設定したことは、そこに深い洞察を感じるのである。

遠藤氏は、吉満義彦と出会っている。そこで、吉満への批判の意識を表明しているが、それは古き中世への批判と見ることも出来るであろう。そして、インドとの対話という「新しい中世」の創造への道を示唆したのではないだろうか。

遠藤氏の切り開いた道は、今も第二バチカンの精神に押されながら、広げられているかも知れない。私も、この道を「新しき中世」としてみていきたいと思う。

中世は、世界文明の出会いの時代であったのだから。

投稿: | 2008年5月 4日 (日) 13時07分

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