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2008年5月 4日 (日)

再臨

十字架は 失敗でない 復活で
 聖霊を受け その果に感謝

再臨は 恵みと共に 教会は
 その感を知る 聖霊に聞け

以前、統一教会の話を聞いたことがあった。十字架は失敗であったという言葉が、印象に残った。なぜ失敗なのか、詳しく聞けば、あるいは納得できる部分もあったかも知れない。ユダヤ人たちがイエスを受け入れたら、どうなっていたか。その仮定の中で思考しているように思えた。そして、現代におけるユダヤ人はキリスト者であり、教会なのだとしたら、教会に執拗に働きかける意味も、何か分かるような気がした。恐らく、こういう思考の前提があったのだと思う。

しかし、復活は十字架が失敗ではなかったと言っているのではないだろうか。十字架が失敗としたら、それは復活も聖霊降臨もない宗教になってしまい、そもそも、キリスト教は存在しないことになる。その前提を否定してはならないのではないか。

再臨は聖霊の恵みを伴うものであろう。であれば、聖霊の宮である教会が、再臨の感覚を与えられないわけはないと思う。聖霊の満たしの中で、再臨を待ち望むのが教会の姿勢なのかも知れない。

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コメント

イエスの十字架は、そのあとに復活と続き、そのためにキリスト教では失敗の象徴ではなくなっている。十字架を失敗というのは、再臨のキリストに目を向けさせるためという点では、意味があるのかも知れない。しかし、それは聖霊降臨という出来事を無視してはいけないのだと思う。その中で、その完成をを求める中で、再臨が志向されなければならないのではないだろうか。

16世紀の宗教改革は、キリスト教の否定ではなかった。しかし、統一教会の主張の中には、十字架のイエスへの帰依ではなくて、「再臨のキリスト」という別の存在への帰依を立てることにより、キリスト教の枠をはみ出しているのではないかと思った。

キリスト教も最初は、ユダヤ教の分派のように思われていたが、やがて、原理的違いが明確になり、キリスト教はユダヤ教とは言わなくなった。統一教会にも、そのような原理的違いがあるのではないだろうか。キリスト教がユダヤ教の中から出て、ユダヤ教と違うように、統一教会もキリスト教の中から出て、キリスト教を超えるところがあるのではないだろうか。

そういう指摘は、すでにキリスト教会の中でなされたことがある。しかし、その時、統一教会は、自分たちはキリスト教会であるということに固執したのであった。

そこには、歴史的教会の「課題」(その中には諸教会の<分裂>があるかも知れない)があり、統一教会が、その回答を持っている、という意識があったのかも知れない。

投稿: | 2008年5月 6日 (火) 14時41分

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