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2008年5月15日 (木)

無教会

無教会 カトリックとは 紙一重
 そこに架橋の 論理あるかも

その架橋は「内在的超越の道」であるかも知れない。それは、逆の超越的内在の路線だったキリシタン宣教の「失敗」への反省でもある。この「失敗」を見つめて、新しい道を模索しない限り、日本でのカトリック宣教は伸びないと思う。

カトリックと無教会とは、ある意味では、両極端であると思う。しかし、そこに絶対矛盾的自己同一の一条の光があるかも知れない。その光は、これまで、カトリック者のあいだでは発見されてこなかったと思う。内村鑑三には、その予感はあったと思う。

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コメント

日本人が信仰を持つということは、半外国人になることではなくて、本当の日本人になることである。内村は、そう言っているのだと思う。そして、そのことが一番、よく分かっていたように思う。これが、それまでの日本宣教の間違いの根本であったのではないだろうか。自分が自分自身になるため、本当の自分になるため、そういう目的であれば、誰でも信仰を持とうとするのではないだろうか。キリスト教は、もちろん、外国から来た宗教であるけれど、「外国の宗教」ではない、そのために何ができるか、それが日本宣教に問われている。神というのは、自分の存在の根拠であり、日本の存在の根拠である、そういう福音の捉え方が重要なのだと、私は思う。

投稿: | 2008年5月15日 (木) 15時04分

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