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2008年5月30日 (金)

カトリシスム

吉満義彦は「カトリック的世界観の根本理念」という論文の中で、こう言っている。

「カトリシスムは中世紀的なものと等置さる可き歴史的時代的観念形態ではないが、特に近世が中世の否定的要素を以て特色づけられる限り、カトリシスムはその時間的に空間的に普遍妥当的な真理性と共に、否正に其故に、近世に否定されし中世の永遠なるものにおいて意識されるのである。近世的人間の思想的危機における宗教的自己精算の道は、ただカトリシスムにおける再生か、近代的思想の論理的総帰結としての無神論における徹底的破壊かの二者択一においてある。危機における原始プロテスタント的神学は……近代的宗教性乃至イデオロギーの根源をなす所の、汎神論と矛盾同一性弁証法関係においてある汎神論的方向である限り、近代への反立においてあるものではなく、近代的世界の内部における一つの極性を形成するに外ならない」

二者択一は、カトリックか共産主義かの選択であり、プロテスタントは近代の枠組みの中で思考しているということであろうか。その弁証法神学へのコメントの妥当性は、なお問われるべきかもしれない。

そして、歴史的中世の永遠的なものを再考せよという。それに戻れとは言っていないのである。第二バチカン後の精神においても、「歴史的中世の永遠的なもの」は意味を持つのではないだろうか。であれば、吉満は今も忘れられてはいけない存在と思う。

この歴史的中世への態度は、もっと明確に表明されている。

「…吉満は、「近代的人間精神理念の自己精算」としてカトリシズムの復権を要求するにしても、それをベルジャエフ流に「新しき中世」と呼ぶことに対しては、「カトリシスムそのものの名において」断固として反対する。彼は言う。「而も尚『偉大なる中世』は過ぎ去った、過ぎ去るべき必然性を以て過ぎ去ったのである。『新しき中世』を語ることは非歴史的人間を語ることである」。そのように言う彼は、「カトリシスム自らは歴史的中世そのものとは別個のもの」であると主張しているのである」(『近代日本のカトリシズム』半澤孝麿著、みすず書房、79頁、注など一部省略)

ベルジャーエフは、歴史的中世に帰れと言ったのだろうか。そうではないと、私は思うのだけれど。

ただ、中世が、信仰と理性との関係を思索していたことを現代でも思い出す必要があるという点では、中世再考も意味があると思う。信仰と理性との関係は、時代を超えた課題でもあろう。

しかし、それにしても、吉満の中世観は、遠藤周作が対立的に見る相手ではないことが、これではっきりしたと思う。だから、小野寺氏が吉満と遠藤との連続性を指摘されるのは正しいのであり、吉満の課題を遠藤氏が展開していったという一面もあるように思う。

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コメント

ベルジャーエフは、『現代の終末』の中で、こんなことを言っている。

「所謂『進歩』の信者達は、中世の理念に復帰するという点についてのどのような提議ももつことはできないし、また彼らが中世的だと考えるいかなる傾向にも熱心に反対する。このことは常に私を驚かせた。第一に彼らは中世の精神と関連する諸々の信念の活発さを全然信じないし、また彼らの勝利の可能性もほとんど信じない。彼らは現代の諸原理が堅実にして且つ持続すると確信している。しからば何故、かくも激しく興奮するのであろうか。第二に、過去の時代に復帰するというようなことは、いまだかつて一度もなかったことだし、将来も決してないであろうし、結局過去の復活など不可能であるということは、もう一度だけ明確にしておかねばならない。吾々が現代の歴史から中世への推移を云々する時、それは一つの方便であって、かくの如き推移は旧き中世にあらずして、新しき中世に向かってのみ行われることができるのである」

「過去の時代に復帰するというようなことは、いまだかつて一度もなかったことだし、将来も決してないであろうし、結局過去の復活など不可能であるということは、もう一度だけ明確にしておかねばならない。吾々が現代の歴史から中世への推移を云々する時、それは一つの方便であって、かくの如き推移は旧き中世にあらずして、新しき中世に向かってのみ行われることができるのである」という個所を読めば、吉満の批判の真意が、どこにあるのか、問われなければならない。

では、いかにして、それを実現するのか。その時、西田幾多郎の言葉を採用したい。

「新しいキリスト教的世界は、内在的超越のキリストによって開かれるかも知れない」(「場所的論理と宗教的世界観」)。吉満は、いたるところで中世的意識を説明しているが、その説明の中には、「超越的内在」の言葉はあるが、「内在的超越」の言葉はない。方法論として、超越的内在のプロセスの採用は、歴史的中世の方法論であろうが、新しい方法は「内在的超越」が採用されるべきなのだろう。エキュメニズムも、諸宗教対話も、この方法でのみ実を結ぶのではないだろうか。

投稿: | 2008年5月30日 (金) 18時51分

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